意味などない。

先日フォルゥナの瞳という映画をみた。

神木隆之介くんの儚い演技ってあまり見たことなかったから新鮮とか、有村架純さんが可愛すぎて演技うますぎて最高とか、そういうのは一旦置いといて、とても現代風なメッセージが込められた映画だなと思った。

あらすじは、フォルトゥナという相手の運命が見える瞳を持つ青年が、死の運命に立っている愛する女性の死を回避しようと奮闘する恋愛物語なのだが、頻繁に出てくるのが『フォルトゥナの瞳を自分が持っている意味、生きる意味』だった。生きる意味や運命というものに、一つ一つ自分なりの答えや正しさを示していく主人公は勇敢で素敵に思えた。

しかし、感動的なストーリー上では生きる意味を求めることは美しく見えるが、最近は事ある意思決定の度に"意味"を問われてすごく窮屈だなと私自身感じる。

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「バイト中に工夫したことや、頑張ったことってないしなぁ」

いつも行くスタバで、少し離れた席にリクルートスーツを着た女性の話が聞こえた。どうやら企業のエントリーシートを出すのに、企業側からの質問に苦戦しているようだった。

(バイトかぁ〜、私もバイトで質問されてもお金のためとしか答えることないな。)そんなことを考えていると、ふと疑問に思った。この質問はあたかもバイトを頑張ったことが前提なのだと。大学生でバイトをどういう立ち位置に置くかは人それぞれだ。私みたいに、ただ単にお金が欲しくてという薄っぺらい理由の人もいるし、将来ウエディングの会場で働きたいからウエディングのバイトに応募しましたという志高い人もいる。エントリーシートという企業に選ばれる側の人間は、いかに企業にとっての"正解"を出そうかと、頑張ったことを練っていくが、練っている時点でその人自身の言葉ではなくなっている。いい感じの言葉を取り繕っても、その人を表す言葉では全くない。

就活を通して疑問に思うことが、なんで全ての意思決定や経験に理由や意味を見出そうとするのだろうかと。それも立派なものを。

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働くこと、生きること、夢があること、全てに意味を見出さないといけないのだろうか。

お金を稼ぐため、死ぬのが怖いから、やりたいことが見つからない、そんなことは理由にしてはいけないのだろうか。

人は知らず知らず強いストーリーを求めがちである。
希望に溢れたもの、絶望で苦しみで満ちたもの、深いストーリーは人にインパクトや説得力を与え"意味"あるものになっていく。しかし、そんな強いストーリーを誰もが手にしていると思ったら大間違いだ。大きな悲劇もなく、悲劇がないから日常を当たり前のように感じているため喜劇もない。希望も絶望も味あわずに、今の時代生きていくことが可能だからこそ、働く意味、生きる意味、存在する意味を問いても答えが出てこない人は多い。答えが出ない、それはその人が知らず知らずに幸せに過ごしてきた証拠なのではなかろうかすら思えてくる。

社会に出ようとすると意味をすごく問われる。就活、転職、結婚…。
レールにそって学歴を重ねてきたらそんな意味など問われる機会などあまりなかったのに、急に多くのことを意味を問われてしまう。あたかも強いストーリーを持っている前提で聞いてくる。

働く意味もない。
生きる意味もない。
私が存在する意味もない。

私に意味を問われたらきっとそういう。
だって、全ては滅びて無になるのだから。

それよりも、私は今日の夕陽が綺麗で美しかったことを感じられたことが嬉しい。それだけで生きていてはダメなのかな思う。

#エッセイ
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