感情は言葉を上回るのか。
「自分の感情を言葉にした瞬間、感情が陳腐なものに感じてしまう。」
シェアハウスで話していたときに、何気なくでた友人の言葉だった。
どうして友人は感情が言語化されたとき、その感情が陳腐なものに感じてしまうのだろう。私は自分の気持ちや感情を言語化できたときになんだか新しい自分に出会った感じがして好きだ。このnoteでは特に自分の大切にしたい価値観や美しいと心動くものを言語化し、記録している。記事を一つ一つ作っていくことは、小さく光っているものを宝箱にしまっているような感覚に近い。
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言葉は記号ではなくて手紙だと思う。
日本語ができたのはいつだかわからないが、言葉の種類、言葉遣い、音の数が時には増減し、時には大きく変容し、今の形がある。昔の"好き"と今の"好き"は意味やニュアンスがもしかしたら違うかもしれないが、言葉が消滅する中で今でも"好き"という言葉が存在し、"好き"を使えるということはなんだか過去から"好き"という手紙が来たみたいだ。言葉という手紙が私のもとに来たこと自体奇跡のように思え、愛おしく感じる。
しかし、言葉というものは99.9%不完全で曖昧なものである。
例えば彼女と喧嘩して彼女が"バカ!"と発して家を出て行ったなら、その"バカ"は引き止めにきて欲しいという意味が強い。(世の男性のみなさん引き止めに行ってくださいね。)喧嘩して飛び出した彼女の"バカ"と男子高校生たちが下校中に友人にいう「お前バカだな〜」という"バカ"は明らかに違う。
言葉の意味=言葉を発した時の状況×言葉を発した人のバックグラウンド×本来の言葉の意味
以上で構成されるような気がしている。
あなたのいう"好き"と私のいう"好き"は違う。
私が食べ物に対する"好き"と大切な人たちに抱く"好き"は違う。
だから私たちは言葉を重ねるのだ。どんな風に好きか、他にどんな感情を抱くのか、不十分な言葉に不十分な言葉を重ねることで少しでも完璧に近づける。あれでもない、これでもないとか試行錯誤しつつ、絶対に伝わらない自分の世界を伝えようとする。
そして時にはわかった気になったり、全くわからなかったりする。
自分のこと、自分の思い、自分の思考。
それらが完璧に伝わることなんてない。それでも人は伝わらなかったことに絶望しながらも試行錯誤に言葉を使っていく。自分の気持ちはこの言葉でもない、あの言葉でもないと苦悩しつつ、言葉を選んで勇気を持って発する。なんて不完全で途方もなく美しい行為なんだろう。
ある人が「相手のことなんてわからない。わからないんだけど、自分なりにわかろうとするその行為こそ愛というのではないか」といっていた。
そう相手のことなんてわからないのだ。だけど、愛する=わかろうと努力する媒体として使われているのが言葉だとしたら、言葉がとても愛おしいものに思えてくる。
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「自分の感情を言葉にした瞬間、感情が陳腐なものに感じてしまう。」
とても正しい意見だと思う。言葉というものは陳腐すぎほど脆く、危ういものなのだ。それでも、そんな言葉を使って何かを伝える、伝えたいことがあることを覚えておいて欲しい。
あなたに少しでも近づきたくて、私に少しでも近づいて欲しくて、今日も言葉を重ねていく。