NOタイトル。
衝撃的だった。
少女が大丸の屋上から飛び降りる動画。
悲鳴。いびつな音。
それを撮影している人を撮影している人。
「腕が取れたらしい。」
「内臓が破裂していたらしい。」
悲惨な状態を伝えるツイート。
タイムラインで流れてくる写真や動画、文字に対して自分が何を感じているか言語化できず、パニックになったのは初めてだった。
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その日のいつからかわからないが、ツイートの雑音が目についていた。流れてくるツイートの隅に「梅田」という文字があり、梅田周辺の電車で人身事故か何かあってみんなツイートしてるのかなとか思った。
メディア関係の会社でインターンしているのもあり、自分のリテラシーをあげるためにも自分の違和感や直感的察知したことを積極的に調べるように習慣付けてときでもあった。
「梅田」と検索バーに入れたら「飛び降り自殺」「NEWS」「大丸」と出てきて、一つの動画に当たった。見慣れた大丸の屋上から少女がふらっと紙がひらひらと舞うように落ちていく。悲鳴がしたあとに、鈍い音が聞こえてくるような気がした。動画のコメント欄には「不謹慎」「人が死ぬところを撮影するなんて、今すぐ消してください。」様々な負の感情を表した言葉が連なっていた。
わからなかった。
自分の感情が。
動画を見て、様々なアンチを読んでしまって、私の抱いた感情はタイムラインで語られてるどの負の感情とも違うように思えるが、なんだかわからないというもが本当の感情だった。
昔何度も再生したが、今では頭の片隅に追いやったはずの小さな記憶だったが蘇ってきた。授業中の教室、みんなが授業に集中している中でおもむろに立ち上がって誰も止める隙もなく窓に向かってかけていくシーン。
やばい。
直感的にそう感じた。
私は自分を俯瞰的にみることが他の人よりも長けていると思っていた。どんだけ悲しいことが起こってもなんで悲しいのか、苦しいのか言語化することによって冷静さを保っていた。でも、この時ばかりは自分がどんな感情を抱いているかすらもわからなかった。苦しいのか、悲しいのか、辛いのか。
涙が出てきたけど、なんで泣いているのかがわからなかった。ただ、やばいとだけ感じた。本当に人間がやばい時はやばいとすら感じられないから、まだ引き返せると思った。息を大きく吸って吐く。その繰り返しでいつもの冷静な自分に戻れるような気がしたが、それができない。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫)
自分を落ち着かせる魔法の言葉をいくら心の中で唱えても、深いところに落ちていき、呼吸が荒くなるだけだった。
結局、スマホで同じシェアハウスにいる住人を呼んで対処してもらった。
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2日経って冷静になってから二つのことに気がついた。
一つは目に入る情報は完璧にはコントロールできないということ。TwitterやFacebookは自分の好みの情報を得られるから情報に偏りがあるといわれるが、それは自分の好き・嫌いが区別できている状態にある人に当てはまることでもある。でも、当然のことだが多くの人は好みなど変わっていくものだし、接触しないと好きも嫌いもわからない。完全に目にはいる情報を支配することなど無理なのだ。
二つ目は言語化しないこと。言語化するという行為は自分を俯瞰的にみる手段でもある。俯瞰的に自分を分析できると冷静になる。しかし、今回の場合は無理に言語化しようとするべきではなかった。
自分の核となる部分やトラウマになるようなことを言語化するということは、無理に心の扉を開けるのと同様である。この心の扉というのは無理にこじ開けていいものではないと考えている。その人の状況、成長度合い、環境、タイミング、全てが合った時に開くと、より自分のことがわかり、自分自身で認められたり愛せれたりするかもしれないが、無理にこじ開けると深いところから変えられなくなったり、自分を傷つけてしまう可能性があるのかなと思っている。
まだまだ整理がつかないことばかりだが、私はなぜパニックになったかは言語化せずに、パニックになった事実だけを受け止めるよう意識している。
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今日も朝が起きられない。
胸の中にずっしりと黒いものを取り込んだように、なんだか重たい。
それでも起きなきゃ何も始まらないから起き上がる11時すぎ。