差別を考える
10年前、弟の奥さんの家族が、福島県から避難してきた。
地震から数日後のことだ。
放射能の恐ろしさに誰もが震えていたあの頃。
弟の奥さんの家族は原発のあった大熊町に住んでいたので、まともに家財道具も持ち出せないまま避難。
福島から弟家族の住む埼玉へ向かう途中、ラーメン店へ寄ったのだという。
しかし、入店を拒否された。
車がいわきナンバーだったからだ。
そして埼玉に来てからも、近所に車を置くことが出来なかった。
ナンバーを見て変な噂をされたり、悪戯されたりするから。
日本は小さな島国で、昔から「助け合い」とか「思いやり」とか、いつだって協力できる人種だと思っていたけれど、よくよく考えてみたら、そういう小さな集落こそが差別を生むということを忘れていた。
あの時ほど、人の目が怖いと感じたことはない。
いつだったか息子と差別について話したことがある。
息子は
「差別とは、『差別をするな』ということがもう差別」だと言っていた。
「例えばさ、男がおっぱいが好きって聞いても『きも!』ってならないじゃん。でも男が好きって聞いたら『きも!』っていう人がいるわけよね。でも問題なのは『きも!』って言った人じゃなくて、『きも!』って言った人を『差別だ!』ということなんだよ。」
差別だと言った瞬間から差別は生まれる、と。
だから、差別のない世界というのは、差別してはダメ、という必要のない世界なんだ、と言っていた。
私は誰かの告白に対して、大概「へえ、そうなんだ」と返す。
それは事実を聞いただけで、いいも悪いもなく、ましてや私が判断することではないからだ。
そしてそれには重さの差がない。
「足が不自由なんだ」
「へえ、そうなんだ」
「わたし、女の人が好きなの」
「へえ、そうなんだ」
「実は〇〇さんが苦手なんだよね」
「へえ、そうなんだ」
ただただ、事実として聞き、受け止める。それだけのこと。
私は、あなたの足が不自由だろうが女を好きだろうが〇〇さんを嫌いだろうが、どうだっていい。あなたはあなたでしか、ない。
その事実に重みを感じた時、感じさせた時、差別は生まれるのだろうと思う。
地震から10年が経った今でも、差別や偏見は消えない。