出会わない系人間が出会った人の話(2)
2 隣町の医師、Y先生
人生の折れ線グラフで幸福度を表す方法で、現時点までで一番底であろう時期の話である。しかしこの時期に出会った人たちは粒ぞろいの宝石で、今でもココロの中で燦然と輝いている。
Y先生は著名人で、仮名を使っては逆に失礼なのでイニシャル表記にする。大手芸能事務所とマネジメント契約を結び、メディアへの出演も少なくなかった。最初の一冊がどれだったかはもう覚えていないが、この土地に住む前に購入したエッセイ本の著者、そして「風邪から花粉症、虫刺されまで何でも診ますの町医者さん」である。私はフィクションの小説やドラマも嫌いではないが、実在する人物の体験を元にした作品のほうが圧倒的に好きである。とりわけ、固有の職業や業界経験のある人物が現場の事実やウラ話を取り混ぜ、臨場感ありありに仕立て上げた小説を集中的に読んでいた時期があった。現在では各種取りそろった医療ものも、当時は『チーム・バチスタ』シリーズ以外あまり一般的ではなかったように記憶している。
Y先生は小説も書くが(しかもハリウッドに進出した某俳優主演でBSドラマ化されたらしい)残念ながら大ヒットとはならず、おもな売れ筋は当時流行の健康番組を模した実用書であった。私は先生の医学生時代~大学病院を辞めて実家の町医者を切り盛りする中で生み出されたエッセイ群が大好きであった。ヘタウマ系漫画家の描いたようなイラストがとき折り挟み込まれるのも一興。夜勤中に病棟で起きた、背筋も凍る恐怖体験…は、そっちの恐怖かーい!と突っ込みたくなりましたよ。
私は大きく体調を崩すことがほとんどない。長年のブラック企業勤めで、風邪や外傷などは気合いで治し感染性疾病以外では休まない、が当たり前であって病院とは無縁。今ではアイドルに会えるのも当たり前だが、Y先生も会える類いの推しなのに肝心の健康体が邪魔をする。わざと脚でも捻挫しようかしらと思っていたところに会社に届いたのは「インフルエンザ予防接種・補助金申請書」。その手があったか!私は早速予約の電話をかけ、申請書をつかんで隣の駅近くにある先生の診療所まで走って行った。
「はい、じゃ希望する方の腕を出して下さい」
大柄な先生の大きな顔がこちらに近付き、日々の労働で逞しくなりたおやかさとは無縁の我が腕が先生の大きな手に委ねられる。おい、今考えるとこれは握手会どころの話ではないぞ。平静を装うのが大人のたしなみだと思っているのだが、そもそも注射は嫌いで毎回心拍数は倍になる。今回は推しに腕をつかまれての同行為だから4倍である。
先生はご自分の風貌を「小児科にだけはなれないと思い希望を出さなかった」と評しておられるが、胸板厚めでバランスの取れたプロポーションに、キリッとした目元と真一文字のシャープな唇が特徴的なクールガイである。ひたすら往復する職場にはくたびれたじじいか夢も希望も無さそうな社畜の若手しかおらず、ときめきゼロの日々×600日ほどを過ごしていた私にチラリとでも外の世界を垣間見せてくれる存在。何事にもアーリーアダプター傾向の先生は著書の巻末に自作のファンクラブのお知らせを載せ、入会者を募っていた。手作りの会報が届き、オフ会(現在で言うところのファンミ)も行うと書いてあった。ブログもほぼ毎日更新し、始まったばかりのSNSにもチャレンジされていた。
ある年、先生の年始一回目のブログに「風邪を引いてしまいました」とあった。正月休み明けは予定通り診療を開始する旨が書いてあったので、お年賀の苺を持って健康体の一般人が風邪っ引きの医者を見舞いに行くという謎の状況まで発生させた。
その後は相変わらず健康体を保ち、一度も先生のところにかからずに転居したのでお会いすることもないままであるが、数日前に思い立ってGoogleMAPで検索したところ駐車場には運動会で使うようなテントとパイプ椅子が並び、医院のドアには「診療中」の看板がかかっていた。感染対策をしながら診療を続けておられたのだろう。長いものに巻かれず自分の信念を曲げない。高齢者医療と関連の深い領域が専門ということもあり、地域の人たちをとくに大事にする。先生の誇り(だからこそ、白い巨塔には居続けなかったのだろう)が垣間見えて、私もふっと笑みがこぼれた。