
タフティ 実験1
クソ女とその旦那
以前数回記事に書いた記憶がある、私の人生からとっとと出ていって欲しい人
一向に消えないクソ女を私の人生から蒸発させる事はできないのかな。と思い、今回実験してみることにします。
クソ女さんとの関係はこんな感じです。
会うことはありませんが、話にはしょっちゅう出てきて、まるで「様子見されてる」ような気分になるのでもう少し自分の現実世界をクリアにしたいな。と思っていたところなのです。
自分以外の人をコントロールする事はできない、というのがゲームの掟として置かれているようですが、私は決して第三者をコントロールしたいなどとは思っていません。彼らは幸せであっていいし、存在していいし、自由にあっていいとおもいます。
が
私の人生の中で目立つ存在として見たいとは思わない
勝手に幸せに暮らせば?
というスタンスなのです
だから彼らは存在すればいい
彼らであり続ければいい
彼らがどうあろうとそれは彼らの自由であり、私が関与することではない
彼らが私の人生に存在している彼氏の友人であろうが、大切な人たちであろうが、私には全く問題はない
彼らが楽しくお付き合いをすることに、全く依存はないしそれは彼らの自由であり、権利ですらあると思う
でも私の人生は私のもの
私は見たいものを自分で選択することができる
そしてクソ女にもその旦那にも私の彼氏にも、私の人生をコントロールすることはできない
だよね?
なので私に彼らを認識できなくするようにすればいいのでは?
彼らがどうこうするように仕向けたいのではなく、私が見たいものだけを見たいという望みを叶えたい
世界のどこかで私が見たくないシーンが存在しても全く構わない
でも私は今この時点で、そのような存在を認識する必要性を全く感じない
世の中で超凶悪な人間がいたとして、そしてその人がどこかの誰かを拷問して苦しめて喜んでいるという事実があったとして(そんなの腐るほど地球のどこかで起こってるはず)
私はそんなもの見たくもないし、見る必要性も感じないし、関わりたくもないと思っている
それと同じことだよね?
という事で
過去にクソ女と関わった出来事から得たアドヴァンテージとして
「世の中には自分の手に入れたいものを得るために、他の誰かが嫌な思いをしても許されると思っている人もいるし、実際彼女は許されている。そして更にそれを他の事にも行なって、常に自分の欲求を満たし続けてそれをサポートしてくれる人を周りに置きつづけることができる。」
そもそもこの見解は私個人の狭い了見で解釈しただけの、個人的感想にすぎない訳だし、世の中には全く違った見方があってもおかしくないから、それを見たくない私とは違う領域にいる人もいる。
そういう人達は、何の問題もなくそのような事実を了承しているのだろう。
うん、それでもOKなんだ。
そうか、それがまかり通っても世の中は許してくれるしそれどころか、もっと自分にとって都合がいい状況を求め続けていいんだ。
へぇ、そっか。
そうなんだ。
という理解を得る事にしました。
そしてプレゼンスの状態に入り、三つ編みを背中に感じた状態を保ちつつ
彼らの姿が細かな細かなピクセルで構成されているのが、どんどん蒸発するように拡散してゆき、まとまっていられなくなり
どんどん質感が薄れてぼんやりとした霧のようになり、携帯の画面でようやく見れるくらいの小さな粗い画像を超高画質の巨大なスクリーンで映して更に拡大してみて
それのピクセルをさらに一つずつ消していった状態を一枚のフォトグラムに納めたものに意識を向けてみました
大きな映画のスクリーンに映ったその一コマは
もはや何の意味もないまばらなピクセルのかけらに過ぎず
それをみている私は、そのピクセルが一体何を表していたかなんて理解できません
この状態で全てを手放してみました
さて、いったい何が起こるのでしょう?
何がどう変化して行くのでしょう?
私がした事は果たして許される事なのか?
全くわかりませんが、ひょっとしたら記憶ごと無くなってしまうかもしれないので、ここに記録しておきたいと思います。
以上