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めも



科学はデータ取って調べてお話を始めるんやけど
哲学は絶対的な定理公式がないけどさも真理かのように話し始めるから、学問と言うより芸術に近いのかもしれないなぁ、と思う。



ドラマの言葉の間合い、現実では絶対ありえないよなぁって思って馬鹿にしてたけど、小説なり詩なり短歌なり映画なり、様々なフォーマットでそれぞれの定型があってそれに乗っかってるんだ。ドラマも同様に。だからカメラを止めるなだったり、定型をぶち壊したりすることが印象的になるんだろうな。



えぇ、千葉雅也さんに影響されました。Twitterじゃ情報が流れちゃうからこっちでしばらくメモをためて、ある程度すると噴出させます。
がっしょんがっしょん。

アートって聞くとそれだけで少し構えてしまう。
身構えるのを無くすのには量が1番いいと思う。俺は映画でもアニメでも短歌でもそうだったから。

小説、詩、及び書き物のアートは自分の知ってるセカイとセカイを接続してくれる。例えば俺の部屋に妖精が現れて、青空を破壊することをお願いされる。部屋も青空も妖精もイメージできる。みたいな、逆に映像、立体、ピクチャーは、知らない世界を表現してくれる。
っていう対比は短絡的すぎるな、うん。また考えるよ。

Moonlightクッキーのしっとりし過ぎずパリパリすぎない絶妙な感じ、繰り返し食べたくなる。

俺の中にある考えの根幹としては、社会のための個人じゃなくて個人のための個人というもの。よく聞くもっとワガママに生きていいってのは、おおよそこのこと。意味があるとかないとか、生産性だとかなんだとか全部社会のための個人っていうのが元になってて、それに違和感なく身を投じてストレス飽和なのが現代社会だと思ってる。自殺率高いしね、日本。当たり前だから分かってるつもりになってても案外そうじゃないようなぁって思う。実際予備校にいるのも高学歴のための自分っていう社会をベースにした状態だから。けど歴史上の人も言ったように人間はポリス的動物なので、どっちに軸足を置くのかはずっと考えなくちゃいけないと思う。今はね、どっちだろうね。
個人的でありたいとずっと思ってるし、この意見は変わらない。

ずっと難しい評論文に悩まされて来た。怒り新党。そして以下のような結論に至る。
先生が評論を解説して、理解出来るのならそもそも難しい文字を使うべきでなく、理解しやすい文章を選択すべきだ。意味を伝えるための言葉なんだから、本末転倒じゃないか。

しかし、意見は変わる。そもそも大概のものはそれに興味がある人の中で循環していくんだ、新参者に優しいだけが正解じゃない!ということが言いたい。
絵なら絵に興味がある人、詩なら詩に興味がある人、政治、科学、音楽、etc
評論もそのセカイ系に住んでて難しいものが分かる人の中で消費され続けてるんだ。
理解できないのは100%こちらに非がある。

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