現代に必要なパノプティコン

パノプティコンという言葉をご存知だろうか。この言葉はイギリスの経済学者ベンサムが設計した監獄を由来とし、フランスの経済学者ミシェル・フーコは監視社会という意味で転用している。

監視社会は現代において既に多くの事柄で利用されている。例えばインターネットや防犯カメラ、監視カメラ、近所同士の井戸端会議、学校、前回私が述べた自粛警察もそうである。これらの事柄は常に誰かの目に触れている環境を指し、危険な行為を抑制させる意味を持つ。また、我々はそのことを許容しており、治安が良くなればそれに越したことはないと考える。つまり我々はベンサムやミシェル・フーコが考えた社会構造を受け入れ既に根付いてることを意味する。

パノプティコンを簡単にまとめると
1監視者と監視対象が存在し、監視者が一方的に監視対象を見ることができる。警察の取調室にある透視鏡を思い浮かべると分かりやすい。
2監視対象は監視者を目視できないが、常に監視されていると意識する。

この2つがあれば実際に監視者がいなくても監視対象はその存在を永続的に意識せざる負えない。ベンサムが述べるにはこれらの監視は経済的な観点からも効率性が上がり、犯罪者でも労働習慣を身につける事が可能で、当時の最下層の貧困者、犯罪者を救うことができるそうだ。これを身近に置き換えるならば、バイトが店長や社員と仕事する日とバイトだけで仕事する日の生産性を比較すれば分かりそうだ。恐らくだが店長の監視下にいた方が効率性が上がるだろう。

つまり人という存在は誰かの監視下においた方が生産性が高まり、彼ら自身の成長にも繋がる。勿論全ての人がそうではない。最初から自分を律する事が可能であれば監視など必要ない。逆説にはなるが、律することができている人は監視する側で、そもそも貧困層や犯罪者にはならないだろう。では上に立つ人はどうだろうか。彼らは自分を律することができているか。

答えはNoである。

上に行けば行くほど監視下から外れる為、堕落しやすい。先程も述べたがどんな時でも自らを律することが可能ならば監視は不要であるが、そうはならない。少なからず不祥事を起こす国のトップや企業のトップを我々は知っている。となれば全体的に監視社会に合わせた方が良いと考えられる。極論だが上も下も関係なく合理的で平等に監視できる存在がいれば社会は良くなる。だが、それは人であってはならない。人は喜怒哀楽があり、忖度と言った他人を心遣える優しい精神性を持っている。また、差別的な一面もある。これらの感情は人が人である大切な要素であるので、絶対的なものには向いていない。現都知事の小池百合子氏が述べたAI=私であってはいけない。少なくとも現代に必要なパノプティコンは人ではない。

次回はより具体的に監視社会とは何か、監視を容認する理由を考えたいと思う。

寄稿者 ぐろ

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