無宗教を誇る前に宗教経典は古典漢文だから寂しいけど、バカは読めない
無宗教を誇るのは、少しも賢さを
証明しない。
国葬は無宗教で行う発言も、
本人に宗教知識ないので、その
恥ずかしさを理解していない。
お葬式は、宗教行為である。
無宗教なんてものは、言葉野遊び。
存在していない。
お葬式そのものが、宗教行為である
というシンプルな答えなのだから。
仏教経典は、仏教用語と宗教学の知識と
宗教開祖の書いた経典は古典漢文。
原点回帰すると、インドサンスクリット語
日本人にサンスクリット語は読めない。
ヒンディ語は読めない。
宗教経典を書いた鎌倉時代日本人の
言葉は漢文・和文。
基礎的素養ないのは、
残念な人は読めない。
だから無宗教と言うのね。
誤魔化して入るだけなのだよ。
キリスト教の聖書も英語が基本。
英語ないと読めないし、
翻訳した聖書は翻訳聖書。
無宗教は恥ずかしいから、
言わない方が恥かかない。
反対に古典漢文に精通すると、
直結した仏教経典を読めるので、
直接対話しているようなもの。
室町時代の一休さんの書いた
古典漢文・和文読めたら、
直接一休さんの教えを学べる
のだから。
一休さんは仏教だよ。
何を見ているのや。
無宗教とは、無知の言葉。
源頼朝や徳川家康や
渋沢栄一の読んだ論語も、
五島慶太の読んだ菜根譚も、
北条政子の読んだ貞観政要も、
漢文古典なので、
普通の人は読めない。
基礎素養ないので
宗教開祖原典を普通は読めない。
読めないを恥ずかしいと、思わず
無宗教ですと言う。多いよね。
それが普通の人こと。
正論、正論、論破、論破、
周りがうるせぇので、
ど正論で返す。
ど直球勝負で返すよ。
古典漢文読めないとは、
本物を読めないと言うこと。
本物を知らないと言うこと。
本物を知らないで、
本物に出逢えないで、
死んでゆくと言うことだ。