《4/4》チャールズ3世は300年前に存在していた⁉︎
全4話中の第4話です。
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前回までのあらすじ
名誉革命で国を追われた元英国王の孫として、ローマで誕生したチャールズ。
24歳のとき王位奪還を目指してイギリスで蜂起しますが、あと1歩の所で失敗。
イギリスに上陸して1年足らずで 政府軍に叩きのめされてしまいます。
結局「英国王チャールズ3世」になる事は叶わぬまま、ローマでその生涯を閉じました。
今回は、付け加えたいおまけエピソード。
チャールズをモデルにした歌のご紹介と、彼の異名「若僭王」について解説します。
追憶のボニーチャーリー
ジャコバイト(※チャールズやその父を英国王にしたかった勢力)の若き希望の星であったチャールズ。
エディンバラに入った絶頂期の彼の姿は、美男子で背が高く、立派な馬にまたがりタータンチェックのコートを着ていたと伝えられています。
(↓エディンバラに入るチャールズ)
そんな彼がロンドンを目前に惜しくも退却した様は、のちにジャコバイト勢力が大きかったスコットランドの英雄として語り継がれるようになりました。
◇
またチャールズの事を 英語でBonnie Prince Charlie(いとしのチャーリー王子)と呼ぶ事があります。
あの世界的ロックバンドも歌ったスコットランド民謡『My Bonnie』は、この"いとしのチャーリー王子"が海の向こうの国に帰って行く様子を歌ったものなんですよ。
(あの有名バンドが歌っている音源はこちら↓)
別名「若僭王」について
第1話で貼ったWikipediaの中に、
"若僭王(The Young Pretender)"という呼び名もあると書かれています。
日本語の書籍は、大体この呼称を使用しているイメージです。
僭は僭称、かってに自分の身分を越えた上の称号を名のること(コトバンクより)を表しています。
しかし、スコットランドの歴史家マレー・ピトック氏曰く、これは「チャールズおよびその父が"不正に"王位を請求した者である」という(イングランド側の)偏見から生まれた言葉であるとして、自身は絶対にこの呼称を使わないと主張しています。
◇
ジャコバイトから見れば
チャールズ祖父が名誉革命で不名誉に国を追い出され、
父とチャールズはインチキ野郎扱い、
彼らを支持したジャコバイト軍も多くの犠牲者を出したわけで…
イングランド側が
「無血で権力交代が行われた!実に名誉的であるッ!」
と名付けた「名誉革命」の名称そのものにも文句を言いたい所ですよね。
◇
最後に、チャールズの死から3年後に生まれたナポレオン先生の言葉を貼って結びと致しましょう。
長い話をご覧くださり、ありがとうございました。
参考
・YouTube
Gresham College
《 Bonnie Prince Charlie and the Jacobites 》
・スコットランド 歴史を歩く (岩波新書) /高橋 哲雄著/2004.6.18
・肖像画で読み解く イギリス王室の物語 (光文社新書)/ 君塚直隆 著/ 2010.9.20