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「北海道南西沖地震」から30年、今残すべきリアルな記述


西野フロンティアさんの記録です。2022,july,2にご自身のTwitterに上げていらっしゃいました。

この記述が、多くの皆様にご覧いただけるように、拡散できたら良いなと思います。以下、引用全文です


もうすぐ北海道南西沖地震の日がやってくる。
今では誰も覚えていないと思うので、今自分が思い出せる範囲で書き留めておこうと思う。

あれは確か7月12日だったと思ったが、夜の10時ぐらいにM7.8、震度6の地震により激しい津波が北海道の西にある小島奥尻を襲った。

青苗地区では火災によりほぼ全焼だった。それより東のフェリー港近くのホテル洋々莊周辺は土砂崩れにより土砂の下敷きになっていた。
私はそれをテレビで見ながら(あの地区なら第28普通科連隊の管轄だな・・)と思いそのまま眠りについたのだが、4時頃誰かが階段を上がって来て直ぐに登庁せよとの事で駐屯地に向かった。その時は既にほぼ全員が登庁していて出発を今か今かと待っていた。
営庭にはヘリが次々発着を繰り返していた。自分が飛び立ったのはもう7時をまわっていた。時間はそれほど掛からない。20分で島が見えて来たがどうもおかしい。島の周りにはドーナツ状に黄色い輪が出来ていた。フェリー港近くに降着。すると船が打ち上げられていたが、私達の足下にはなぜか航空自衛隊の制帽が散乱していた。ただでさえ混乱しているのに更に混乱した。
私達はその制帽に足を取られながら水缶、ロープ、スコップ等を抱えて走った。その先はホテル洋々莊があった場所だ。
そこには性格が悪い事で知られる2科長が涙を流して対応していた。これはただ事ではないぞと思い、現場に向かった。

2階建てのホテルは1mの高さもないほど土砂に被さっていた。その上で島の建設会社のバックフォーが3台忙しく土を取り除いていた。
私達はなんとか生存者を探したかったが、とてもそれは無理そうだった。私達は瓦礫の見える所を注意深く観察した。何もかもが遺体に見えてくる。その中でソファの中のスポンジの様な物が見えた。その瓦礫を重機がバケットで浮かすと中から人らしきものが見えたので駆け寄ると、それは両手を万歳の様にした直ぐ横に左足が並んでいた女性の遺体だった。
身体全体が赤黒く腫れ上がっていて苦悶の表情を浮かべていた。私が最初見たスポンジの様なものは、彼女の左足の付け根が千切れていた為、骨が白く、脂肪が黄色く見えたのだった。
瓦礫はとても人の力では持ち上がらないと思ったが5・6人で必死に持ち上げると僅かな隙間が出来た。後ろから私達の足の間から誰かがすり抜けて中に入り、彼女の左足を引っ張って引き摺り出してくれた。
私達はホッとした。正直遺体に触れる事が怖かったからだ。どうやら引っ張り出してくれた人は航空自衛官のようだった。その後しばらくすると後方で「おーいあったぞ!」と声がして、足を右脇に抱えた航空自衛官が走って行った。
私達はしばしショック状態だった。そんな中「俺はもう遺体には絶対近寄らないぞ!」という隊員が2名出てきた。私は何かさせないと非常に良くないと思い、道路清掃を命じた。道路はまだ瓦礫の山だったので災害派遣の車両が近寄れなかったからだ。釘の1本でもあればパンクの恐れがある。ベニヤ板を2枚合わせてブルドーザーの排土板の様にして泥ごと押し、綺麗にする様指導した。

そうこうしていると土砂の中から少しずつ遺体の一部が出て来た。私は直接触るのが怖かったので近くにあったシーツを持ってきて遺体の上に被せて掴む様にした。すると、もの凄く気が楽になった。
それを見た他の隊員が「それ良いね!」と言って皆それを真似した。シーツは何回も使い回していたので直ぐに真っ赤に血に染まった。

昼になると近所の御婦人方がおむすびを作って持って来てくれたので、食べようと思ったが手袋は真っ赤な状態だ。周りの隊員は手を洗う事もなくそのまま手袋をぬいで食べていたので、私も手袋を脱ぎそのまま頂いた。意外に素手はきれいだった。

夕方になり2次被害もあるので捜索は一旦中止になり、宿泊所の集会所の2階に入った。
晩飯は民生品の缶詰の牛飯か貝飯だったと思う。
日航機の経験者も居たので”その夜”は肉類が食べられないと聞いていたのでドキドキした。が、意外なほどすんなり食べる事が出来た。どうやら耐性がありそうだ。すると階下からおばさんがビールを差し入れてくれたので、皆ご厚意に甘えて一杯やる事にした。にわかに声が大きくなった。私は階下の被災者を見ていたので「静かにっ」と小さく言った。幸い皆すぐに察して静かになった。
皆の話題は1週間後の参議院選挙?の話が多かった。その時も自民の一角を崩せるかどうかといった話だった。私は話しに加わらず天井を見上げていた。

いつしか眠りかけていたその時、階段を走り上がって来た先任が「今から救援物資を受領に行く!準備!」と言ったので時間を見ると2時を過ぎた位だった。外を見ると雨が降っている。私は「やばい!遺体が腐る!」と思った。
夜中の出動は沖合に居る大型船に積んだ支援物資の段ボール箱が雨で濡れて崩れるおそれがあるので小型船で受け取る為だった。
沖合は波が高く不安定だったが、1つも落とさず受け取る事が出来た。フェリー港に着くと民間の大型貨物トラックが停まっていたので首尾良く全部積み込んだ。
ホッとしたその時、またしても意外な事が起こった。車が全く動かなくなったのだ。車両陸曹が点検するとクラッチオイルが全部抜けきっているとの事で、後から来た別のトラックにまた積み替えるという2度手間をやる事になった。

作業が終わった時にはもう朝になっていた。その日は寝ずにそのまま昨日の遺体捜索の続きに移行した。
そこでまた問題が発生した。死亡した被災者の遺品を集積していた売店の中の金品が全て無くなっていたのだ。
私達は動揺した。当時はATMという物がどこにでもある物ではなかったので観光で訪れていた人達は全て現金で持っていたのだ。
総額どれくらいになるか予想もつかなかったが、責任の所在はどこになるのだろうか?といった話になっていった。
結局警察の所管みたいな話になったが、これは最初に気付いた者がしっかりとした対策をすべきだった。
その後の災害派遣では改善されたように思う。

2日目はシーツの代わりに競輪協会から送られてきた純毛の毛布が役に立った。もったいないと思う人も居るだろうが、私はバチは当たらないだろうと思った。
遺体はバラバラだったので担架は軽いものだった。シーツや毛布で遺体を包む事は報道機関からの撮影を遮るのにも役に立った。
2日目にもなるとそれぞれ段取りが良くなり、遺体が発見されると先ず線香係が線香をあげ、皆で手を合わせる。線香は弔いの意味もあるが遺体の死臭を和らげる役割もある。その為か救援物資には大量にお線香が入っていた。
次に衛生隊員がフォーマットに発見状況を書き込んでいく。だがあまりにも凄惨な状態の為、発見時刻、その状況しか書けなかったと思う。性別や年齢など全く分からない。
発見された遺体にはベニヤ板を上に掛けて重機のバケット等でそれ以上遺体が損壊しないように配慮した。ある程度瓦礫が取り除かれたら後は手作業だ。
五体満足の遺体はひとつしかなかった。だがその遺体も顔が無かったそうだ。皆ほとんど裸同然で浴衣を纏っていた。衣服は身体以上に柔らかいから石や砂ですりつぶされ剥ぎ取られてしまう。
私は遺族に見せたくないと思った。それまでの思い出が掻き消されてしまうのではないかと思ったのだ。

バスガイドの御両親が私達に御礼を言いながらやってきた。バスガイドは若いバスの運転手の後をついて1階ロビーに来たまでは良かったが、なぜか反対側に行ってしまいはぐれてしまった。その後土砂崩れが起こり、運転手は助かったが、彼女は厨房で亡くなったようだった。
運命の分かれ道とは分からないもので、お風呂に入っていたら湯船ごと海側に押し流されて助かった人もいた。

フェリー港のターミナルは白木の棺でいっぱいだった。フェリー港は津波で港内に沈んだ大型貨物トラックにより使用できない状態だった。
そんな中新しい任務がやってきた。私は正直今の作業に飽きてきたところだったので志願した。中型船に積んだ棺を沖合で待っている大型船に海上で移し替えるのだ。
どうやら北海道本島の病院でDNA判定するために運ぶようだった。その為、棺はまるで空の様に軽かった。
船の大きさがまるで違うため、波がうねって船どうしの高さが合った瞬間渡すといった段取りだが、かなり難易度が高そうだった。一応ロープで船どうしを引き合わしているが、波がうねる度に激しくぶつかりあうので挟まれたら一巻の終わりと思われた。棺の数は50ほど。果たして出来るのか・・と思ったが奇跡的に1つも海に落とす事なく渡し終える事が出来た。我ながらたいしたものだと思った。

最後の撤収の日、海上自衛隊の小型舟艇で沖合の護衛艦に向かった。慣れない船で皆口から撒き餌を相当撒いていた。
船首の班長?が笛で船尾の発動機操作隊員に指示を与え、船は護衛艦に向かったが、順番待ちの為、皆ぐったりしながら辛抱強く待った。やっと艦に乗るとカップヌードルを御馳走になった。甲板に出ると西の海上に太陽が沈みかけており、奥尻島が黒く染まっていた。
私達は仮眠場所を探したが艦の端の方は柵の隙間が大きい為、海に転がり落ちそうだったのでハープーン発射管の根元で一夜を明かす事にした。
いつか復興した奥尻に再び訪れる事を心に誓いながら・・。


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