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私とフロンターレ🐬と銭湯♨️と( 2)


まさか川崎に住むとは夢にも思わなかった。

📝川崎に越してきて最初の10年📝

2009年4月、それまで東京郊外に妻と2人で住んでいたが、家族の事情でその日は訪れた。

家も変わり、職場も変わり、妻のお腹には赤ちゃんもいた。川崎に引っ越しになった詳細は伏せるが、ありとあらゆることが自分の取り巻く環境で変わった年だった。
その日から約10年、私は今振り返っても、この10年は苦難の連続だったと思っている。

初めての土地に住むこと、職場が変わること、家族が増えること、自分にとっては安易に考えていたのかもしれない。でもそれは大変なことで、私自身、新しい職場にもうまく溶け込めず生活も大変で、2度3度、体を壊し、ひどい時は家で倒れ、入院までした。倒れて入院した先の病院の先生が、それだけ生活環境が一気に変われば、そうなりますよと同情ともアドバイスともとれるような助言を下さった。

そんな中、自分の心の平安は、近所の銭湯に行くことだった。小さい時から父に連れられ、小学生の時は近所の友達と、銭湯に行くことは生活の一部だった。自分が初めて親元を離れ、一人暮らしを始めた時も、アパートを探す条件に、近所に銭湯があることと不動産屋にお願いをした。

幸いなことに、引っ越した先の川崎の家から歩いて5分ぐらいのところに銭湯があった。

その銭湯こそが、その10年後にフロンターレのことを私に勧めてくれた銭湯である♨️

ただ引っ越してきて間もなくも、ほとんどその銭湯のご主人などと話をする訳でもなく、普通のお客さんと同様、お風呂に入りにいくぐらいだった。

銭湯に通い、何とか生活はしていたが、体調の優れない日は続いた。そして、何度も休んだりの繰り返しと、職場へ馴染めない状態が続いたので、結局その職場は退職した。家族を養っていかなければならない現実と、しかし自分の健康状態ではその時はあまりにもかけ離れていたので、どうしていけば良いのかと頭を抱えた。

しかし、妻は前を向いてくれていた、というか必死だったと思う。私が退職したタイミングで彼女は働き始め、その代わり私が娘の面倒をみた。この時のことも妻にとても感謝している🥲

🐥♨️娘が繋いでくれた縁🐥♨️

私の健康状態がひどかった時に妻が働いてくれたおかげで、私はしばらくの間は休むことができた。そして、私自身の体も回復し、また違う職場で少しづつ働きはじめた。

その職場が今私が勤めている職場なのだが、当初はフルタイムではなくパート契約のような形で勤めていた。なので、当時3歳頃で保育園に入った娘の送り迎え担当は私、保育園から帰ってからお風呂に入れることも私の役目だった。

その娘を私が通っていた銭湯に連れて行った♨️

きっかけは川崎銭湯の案内に、大人1人の入浴で幼児2人まで入浴無料と書かれていて、これはとてもありがたい!家でお湯を溜めて入るより、銭湯に行って大きなお風呂で自分も娘もさっぱりできれば一石二鳥と思った!

そして連れて行った先でも、銭湯の方が娘にとても良くしてくれた。入浴の時のおもちゃ🐥をたくさん貸してくれたり、娘が先に入浴を済ませると、脱衣所で銭湯のお母さんが待っていて娘の身体を拭いて着替えさせてくれて、お父さんはゆっくり入っていて大丈夫だからと声をかけてくれた。また、銭湯のご主人の娘さんも出てきて、娘の髪を乾かせてくれたり、遊び相手してくれたり、銭湯のご家族のみなさんが家の娘の面倒をみてくれた。この時の暖かさと感謝の気持ちは決して忘れることはない。本当にあの時はありがとうございますといつも思ってる。

川崎に移住して、大変なことの連続で、知り合いもいない中、私が子どもの頃通っていた銭湯の暖かさを川崎でも再び感じることができた時でもあった♨️

よーく考えてみると、この時、娘を銭湯に連れて行っていなければ、銭湯のご家族の方とも交流もなく、その後の🐬フロンターレ🐬のことも知らないまま過ごしていたかもしれない。そう考えると、娘が銭湯のご家族との関係を繋いでくれた。
そして、大人1人に幼児2名まで無料の
♨️川崎銭湯システム♨️(勝手に私が命名😅)

家のようなピンチの家族もたくさんいるかもしれない、銭湯に家族で行って我が家のように人の暖かさを感じることができるかもしれないこのシステムは今後もぜひ続けてほしい😇

私とフロンターレ🐬と銭湯♨️と
(3)に続く。

#川崎銭湯
#川崎市
#frontale

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