20年ぶりにお母さんに会った話(2日目)
みなさん、こんにちは。
朝は氷点下4度まで下がる極寒の地長野でいつもブルブル震えながらベッドから起き上がるひかるです。
さて今日は母親と会った次の日(2日目)についてお話しします。
1日目については以下の記事からご覧になれます。
ではスタート!
2日目の朝
俺は夜遅くまで晩酌していた。
寝たのは12時半ごろで朝は8時頃に起きようと思った。
ところがそうはいかない。
マニラの朝はとても早く、もう6時からうるさい。
マニラは交通渋滞が大変な社会問題になっており、渋滞にはまらないために早く起きて移動するらしい。
携帯のタイマーで起きようと思っていたのに、クラクションや人の声で起きてしまった。
しょうがないので、よくわからない虫が床にいるシャワー室でシャワーを浴びて朝ごはんを食べに外に出た。
本当はゲストハウスの周りは治安が危ないから外に出るなとお母さんに厳しく言われたが、そんなのは旅ではないと思い、多少の申し訳なさを抱えながらとにかくも外に出た。
しばらく歩くと前からバケツを両手に担ぎながら歩く人がいた。
謎の掛け声をしながら歩くと、ボロボロのお家から人が出てきてはお金と交換して物を買っているのが分かった。
「行商だ」
知り合いの社労士さんのサポートを受けながら江戸時代の行商を調べている自分にとっては格好の研究材料だった。
早速その人混みの中に自分も加わる。
買ってみるとコップの中には豆腐とタピオカ、甘いタレがかかっており、日本人にも食べやすい味だった。
というか私からすれば「初めての味」や「懐かしい感じ」が全く感じず、「この間もこれ食べたよな?」という感じで受け入れてそのまま食べていたことに気づいた。
後でお母さんに聞くと、よく朝ごはんで食べられているものらしく、私も幼少の頃はめちゃくちゃ食べていたらしい。
やはり人間の記憶というものは不思議なものだと聞きながらそう思った。
食べながら歩くと細い裏路地に人が集まっているのが見えた。
大通りとは異なる雰囲気が醸し出しており、明らかに地元住民で形成されたコミュニティーの世界だった。
「一眼レフカメラを持ちながら人混みにも入っても大丈夫か」
はじめて足がすくんだが、好奇心に掻き立てられている私の心はすぐに許した。
意外にもジロジロ見られることは特になかったから一安心した。
集団のなかを覗くと病院のお医者さんが街中で子どもたちの健康診断をしている最中だった。
泣いている子どももいれば、なぜかTシャツは着ているけどパンツは履いてない男の子が駆け回っているなど現場はカオスだった。
とりあえず謎が解けると早足で裏路地を抜けて他の場所も散策することにした。
10分ほど歩くと建設途中の高層ビル群が登場した。
建設途中のビルに垂れ幕のようなものが掲げてあり、カメラで覗くと興味深い一文があった。
現在フィリピンも含めた東南アジアの経済成長が凄まじく、そこに中国資本が関わっていることが大変多い。
(企業の協調時代といわれている現代日本からすれば「経済のイケイケ感」をこの垂れ幕から感じとることはできるだろう)
経済成長を促す側面がある一方で収入格差が急速拡大していることや経済そのものが中国依存していることも同時に起こっている問題があった。
街歩きしながらもフィリピンやマニラという土地をベースにしたその土地ならではの「アイデンティティ」というものが、無情にも中国資本に飲み込まれ消去されている感じを受けた。
(ちなみに一部このような側面があるかもしれないと述べているだけであり、あくまでも中国資本の全否定をしたいわけではないことを留めておく。)
歩き疲れた&お腹が減ったので近くのパン屋で朝ごはんを買い、ゲストハウスに戻った。
いざお母さんの家へ、
お母さんとは12時に約束していた。
11時半頃に妹のAndyがゲストハウスまで迎えに来てくれ、一緒に家まで向かった。
昨日とは異なり、かなり優しい英語を使ってくれた。
申し訳ない気持ちがありながらも道中は「恋バナ」で盛り上がり、案外気まずい雰囲気にはならなかった。
Andyはバイセクシャルらしく、はじめての彼女とはつい最近に1週間で終わったらしい。
「中学生じゃあるまいし、なんで1週間で終わったんだ?」と聞いてみたところ、「みんなそんなもんだよ」と答え、フィリピンでの交際期間がすごく短いことがわかった。
私の恋愛についても刑事ばりに聞かれ、必死に回答し、ひと段落した。
するとAndyから
「I have some questions」
といわれた。
改まってなんだ?と思ったら
「who is he」と聞かれた。
誰だろうと思いながらAndyの携帯を覗くとアイツがいた。
フィリピンに行っても出てくる〇〇の名前。
Andyがインスタグラムのフォロワーを見せてきた。
スクロールすると色んなフィリピン人や英語の名前の中に1人漢字の名前が突然出てきた。
逸見直輝
思わず飲んでいる最中のオレンジジュースが吹き出しそうになったと同時に「マジかよ」と思った。
逸見は高校時代の野球部の友達で、旅行に一緒に行ったり私が主催するイベントに来るなど良き友人だが一つ欠点がある。
アイツはばかだ。
あるときフィリピンの妹がいると話すと「よくわからないけどフォローする」と言って、本当にインスタをフォローしたのだった。
「よく分からないけどフォローする」理由がよく分からないけれども、とにかくそういう経緯があった。
当然、妹にも理由聞かれたが、私でも「よく分からない」のだから回答に詰まった。
唯一、うまく回答ができなかった時だけ私とANDYの間に多少の気まずい空気が流れた。
フィリピンの地から逸見を恨んだ。
お母さんの手料理と20年の埋め合わせ作業
家に着くとお母さんは料理を作って待っていた。
エビの炒め物とフィリピンの郷土料理シネガンスープがあった。
「お母さんの手料理だ」
ようやく食べられると思うと顔が自然と微笑んだ。
シネガンスープはご飯と混ぜながら食べるのが一般であるらしく、その通りに従った。
酸っぱさがありながらも大変美味しく、すぐに平らげた。
食後は私と母の20年の埋め合わせをする作業をした。
なぜあの時親父と離婚したのか?
なぜ俺をフィリピンに連れていったのか?
なぜ俺と別れることになったのか?
20年間どんな生活をしていたのか?
話は尽きなかった。
埋め合わせする作業が少しずつ私の空虚感のあった心や記憶の隙間を次第に埋めていった。
そして驚いたのが、私に関する思い出の品を大事に保管していた。
記憶の埋め合わせや思い出の品を大切に保管しているところを見るとお母さんはずっと私を愛していたことがわかった。
そして最後に別れた日についても話してくれ、その日の写真も見せてくれた。
右下を見ると2004年12月18日とあった。
2004年ぶりに会ったのだなと思うと深く感慨に浸った。
意外に嬉しかったのが、Andyも私と母の記憶について興味深そうにずっと聞いてくれていた。
少しずつ3人の記憶が共有されていく感じがあり、フィリピンの家族という感じがあった。
フィリピンにも帰れる場所があると思うと嬉しく感じた。
空気がしんみりしてしまったということもあり、外に出かけることになった。
マニラの観光地を巡る時に様々な衝撃的光景を目の当たりにしたのだが、長くなってしまったので、別の記事で投稿する。
次回はお母さんと別れる日、「20年ぶりに母親にあった話(3日目)」です。
お楽しみに!