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20年ぶりにお母さんに会った話(最終日)

超お久しぶりです。

いつも変なタイミングで書くモチベが下がってしまって、すみません。

意外と読んでいる方が多いらしく、「次回を楽しみにしている」という声も多く聞き、モチベが上がったので改めて書きます!
(あと、最終話をどう纏めようか悩んでいたという言い訳も)

本日はお母さんと再会した3日間の最終日について話します。

前回のお話を忘れてしまった方はこちらから読み直せます!


それではスタート!


フィリピンの宗教観

Andyは学校のオンライン授業があるということで来れなかった。
最終日、お母さんと2人でデートすることになった。

お母さんがゲストハウスに迎えに来るまで、いつものように周りを散策して、人や建物を中心としたフィリピンの社会を観察していた。

しばらくするとお母さんがゲストハウスに到着し、作ってくれたChamporado(チャンポラード:ココア粥)を持ってきてくれたらしく、お腹が減っていた私は一気に平らげた。

一見すると美味しくなさそうに見えるだろうが、こればかりは本当に美味しい!
(いまだに自分でも作るので、ぜひみなさんも食べてみてください。)

画像はネットから。『spandish』https://snapdish.jp/d/ruD0Da

食べ終わると私の「フィリピンの宗教を見たい」とのリクエストに応えて、街中にあるカトリックの教会に向かうことになった。

近年、日本での宗教に関するトピックについて社会的な問題(ネガティブ)として取り上げられているが、そもそも「宗教ってなんぞや?」「宗教との関わり方、距離感」というものが全く分からない私(日本人)にとって、カトリックキリストとフィリピン社会の関係性が気になり、教会に行くことになった。

15分ほどジプニーに乗ると空港近くの教会についた。

National Shrine of Our Mother of Perpetual Help

中に入ると意外にも質素な造りで驚いた。世界史の授業でプロテスタントとカトリックの見分け方として「質素がプロテスタント」、「豪華絢爛がカトリックだ」と乱暴な教え方をされていたので、自分の目で見ないと分からないもんだなと感じた。

蒸し暑い中、マニラの人々が静かにお祈りしている姿が、よりキリスト教の尊厳を際立たせていると感動した。

教会の敷地に入る際に「私は宗派が違うから」と教会の本堂に入ることを拒んでいたお母さんだったが、ずっと建物内の雰囲気に感動していた私を見かねて本堂の中に入り、隣に座るとフィリピンの宗教を話してくれた。

聞くとフィリピンはキリスト教のカトリックのさらに厳しい宗派を信仰している人がほとんどであるそう。

一番驚かされたのは、フィリピンには「結婚」はあるが「離婚」はない。

つまり一度結婚したら亡くなるまで戸籍は一緒であり、現在その制度を採用しているのはフィリピンとバチカン市国だけという。

それだけを聞けば「なんて不自由だ」と思うかもしれない(というお母さん自身も「結婚したらお終いだ」と言っていた)が、それでも人々のが信仰深い様子を見て、とても興味深かった。

言語化はしにくいがフィリピンの人々と宗教の距離感がちょうど良く、また心地いいものであると素人の私から見ても感じた。

しばらく教会とその周辺のまちを楽しんだのち、空港に向かった。

教会の隣にある市場。上野アメ横に似ている。

実はせっかくフィリピンに来たのだから旅行もしたいということで、途中から合流する彼女と空港で待ち合わせることになっていたのだ。

みいちゃんのおかげで知った「お母さんの武勇伝」

空港で30ほど待つと出口から、彼女(みいちゃん)が出てきた。

実は彼女にとってはこれが2回目の海外旅行で、「英語も話せないのによく1人で来れたな」と感心した。

セブ島に向かう飛行機の出発まで4時間ほどあったので、3人でランチしながらずっとおしゃべりしていた。

ここで一つ彼女の才能を紹介したい。

彼女はゲラだ。

ゲラすぎるほどゲラだ。

どんなにつまらない話でも何が面白いのか分からなくてもとにかくすぐ笑う。

そんな彼女が来たおかげなのか、3人の会話が弾み、特にお母さんが調子乗り始めた。

この3日間、20年ぶりの再会ということで再会に噛み締めたり、お互いの人生の歩みを語り合っていたから、空気感としてはやはり「しんみり」していた。
なので、こんなお調子者の一面があるのだと気付かされたと同時に、調子に乗ってきた母親から次々へと若い頃の荒々しい一面が出てきた。

いくつか紹介しよう。

「オマエ、ヤルゾ」

お母さんは出稼ぎのため、日本に来た。
ただ稼ぐ手段がかなり限られていたので、当時はコンパニオンとして働いていた。

あるとき大宮で働いているとき、その時の雇用主は反社会勢力だった。

もちろん彼らの事業?として金貸しもしており、よく電話で取り立てるときに彼らの口癖が「お前、やるぞ」だった。

日々「お前、やるぞ」を聞きまくっていたので、喧嘩や怒るときにお母さん口ぐせもいつしか「オマエ、ヤルゾ」になっていた。

もう少し柔らかい言い方するよとお母さんに伝えたものの、「オマエ、ヤルゾ」が染み付いてしまったので、きっとこれからも日本語で怒るときは「オマエ、ヤルゾ」しか言えないだろう。

「反社会勢力をガン詰したお母さん」

そんなあるとき、新潟かどこかで働くことになったときに反社会勢力から書面を提示され「サインをしろ」と言われた。

ただ母親は「話す」ことはできるが「読む」ことはできない。

それを逆手にとって「サインしろ」と言われたらしいのだが、どうやらその魂胆が非常にムカついたらしく、「やり方が汚い」と反社会勢力をガン詰したらしい。

あんまり外国人がガン詰することがあまりなかったらしく、相手がひよってしまったらしい。

きっと「オマエ、ヤルゾ」と言ったんだろうと言われなくても予想ができた。

仲良くなった知らないフィリピンのおばさんに撮ってもらった一枚。

話しているうちに飛行機に搭乗する時間が来た。
この3日間は私にとって濃密な時間で、とても充実していた。

普段人と別れるときにあまり寂しい感情を持たない私でもこればかりは寂しさを感じた。

ふと、お母さんの顔を見ると意外と普通だった。

「また会おうね。バイバイ!」

と意外にもすらっと帰っていった。

だが後日話を聞くと「今すぐ涙が出そうで、そんなお別れをしたくないから気丈を振る舞って、そそくさと帰ってしまったのだ」という。

なんとなくお母さんの性格が鮮明に分かってきた気がした。

寂しさを抱えたまま、残りのセブ旅行を思いっきり楽しんだ。

おもひでぽろぽろの「タエ子」と「じぶん」

「今回のフィリピン旅は自分にとってどんなものであったか」

フィリピンを離れるまでずっと考えていた。

そんな中、なんとなく一つのヒントになるかもと思って成田行きの飛行機に搭乗する前にジブリの「おもひでぽろぽろ」をダウンロードした。

元々以前から気になっていた作品であり、海外の回線だとNetflixで見れると知っていたということもあったので、そのようにした。

おもひでぽろぽろのワンシーン

あらすじについては引用したので、下記から確認してほしい。

1982年、夏。10日間の休暇を取った27歳の会社員タエ子は、姉の夫の親戚が暮らす山形へ旅に出る。東京で生まれ育った彼女には、小学5年生の時、田舎がなくて寂しい思いをした記憶があった。旅の途中、彼女は当時の懐かしい思い出を次々と蘇らせていく。小学5年生の自分を連れたまま山形に到着した彼女は、親戚の家の息子トシオや農家の人々と触れ合う中で、本当の自分を見いだしていく。

https://eiga.com/movie/35362/

あらすじにもあるように作品内で「小学校5年生の自分を連れたまま」が描写されているシーンが幾度なく登場する。
そして山形の旅が終わると、寂しかった「小学校5年生の自分」と"さよなら"して、「本当の自分」を見出し、次に進むタエ子の姿があった。

寂しかった小学校5年生とさよならする直前のシーン

一方「じぶん」はどうだろうか?

タエ子の旅と重なる箇所は多いもののラストシーンの「寂しかった記憶をもつ自分」と”さよなら”するという感覚にはならなかった。

「小学校5年生の自分を連れて」までは一緒だと思う。
実際、着陸直前に6歳の記憶が突如として現れ、26歳の自分と一緒に旅をしたのだから。

だけれど6歳の記憶は特に「寂しい」ものではなかった。

むしろお母さんと一緒に過ごした記憶だし、またフィリピン社会の貧しいながらも活き活きした記憶でもあるので、ポジティブなものである。

だが時間の経過もあり、中学・高校は充実しているけどどこか寂しさを覚えるようになった感覚があったことを思い出した。

つまり自分にとっては6歳の記憶を無くしたことで、どこか寂しさを覚え、空虚感を抱えたまま生きていたのだと思った。

そんなことを考えながら成田空港に着いた。

改めてタエ子と比較する。

タエ子は山形の旅で「小学校5年生の自分」を連れたものの、最後に”寂しい記憶・自分”とさよならした。

では、自分はどうしようか。

もう答えは決まっていた。

旅を通して思い出した”6歳の記憶・自分”と共に生きよう。

もう二度と6歳の自分と逸(はぐ)れない。

次に進むために6歳の自分は必要不可欠である。



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