伝説の一日ダウンタウン漫才
稽古に稽古を重ねて完成するお笑いも
稽古だけでは届かないお笑いも
どちらも凄いし
どちらも面白い
楽譜を読み込んで練習を重ねた演奏と
ジャズのインプロビゼーションとは
優劣を比較するものでは無い。
まいじつ記事の話がややこしいのは
そもそもダウンタウンにとっては
楽譜を読み込み練習を重ねた演奏も、
インプロビゼーションも、
両方とも高レベルな出来で演奏出来てしまうことも影響しているのかもしれない
後者は、練習だけでは到達できない分、誰にでも出来る技術ではないという意味において、
笑いとして、成立させるレベルに引き上げる難易度という側面では、
より高いと言わざるをえないだろう。
ましてや、ワンステージの中で繰り返し大爆笑を起こすとなれば尚更。
仮に、
楽譜通りに演奏する技術も抜群で、かつ楽譜を解釈する感性も卓越したミュージシャンコンビがいたとして、
一方で、
彼らは、インプロビゼーションの名手とされるコンビでもあったときに、
彼らのファンが何年も、彼らはもう二度と舞台で演奏はしないのだなと諦めていたら、
31年ぶりに舞台で演奏する。となった場合、ファンならば当然、どちらのスタイルの演奏も観てみたいと思うはずだが、
ワンステージに限るのでどちらかのスタイルでしか演奏しないとなったときに、
彼らのファンは、どちらのスタイルの演奏をより観たいと思うのだろうか、、、といったファン心理を慮る想像も、松本氏がこの度の漫才スタイルを決定していくプロセスの中で、もしかしたらあったかもしれない。
このたびのダウンタウンの漫才は、クイズという大枠は決めていたものの
浜田氏がその場で出したお題に松本氏が、それ以上高ければ観客が理解不能に陥るぎりぎりいっぱいの高さに、瞬時に調節して、観客の予想を上回る展開を繰り返し、
これに浜田氏が最適なタイミングで、的確なワードを、最適な音階と強弱と長短で重ねていった、、、言わばその場でしか生まれない、誰にも真似の出来ない、つまり唯一無二の作品であったと思います。
まいじつ記事の文意がもしも、
「前者のスタイル」での漫才も観てみたかった。
だけならば、まったく同意できるのだが、
「後者のスタイル」の漫才は彼らにとって造作のないこと。簡単に漫才を済ませていたので、ガッカリしたファンが相次いでも仕方ない。
と読めるところに、どうしても違和感を覚えてしまう。
百歩譲って、(有りえないが)まいじつの言っている
「彼らにとって造作のないこと」
が、正しいとして、
彼らにとって造作のないことイコール
万人にとっても簡単である
ではないし、
もしも造作のないことなら、
あんなに、二人とも大汗をかいて漫才をしない。
#長谷川朝ニ
#博多大吉
#まいじつ