傘
女のマンションから少し歩いて表通りまで出た。
部屋の中はエアコンで快適だったけれど、外は蒸し暑くベッタリと空気が身体中にまとわりついてきて不快だった。
テレビの収録が終わるのが何時になるか判らないと言った手前、帰るにはまだ早い時間だからどうしようかと迷ったが、交差点の赤信号のせいでスピードを緩めたタクシーに反射的に手を挙げてしまった。
自宅マンションを告げると運転手は
「あの辺は芸能人がたくさん住んでますよね?お客さんも誰か見たことありますか?」と話しかけてきた。
「いや、まだ一度も」
この運転手に俺のことは知られていないようだ。巷ではブレイクしたと言われているけれどまだまだだな。
「すみません、やっぱ行き先変更してAまでお願いします」
さっきシャワーを浴びてこなかったし、時間も早すぎるから、最近流行りのサウナに寄っていくことにした。
テレビ局に程近いこのサウナはそれこそ有名人もよく利用しているが、今夜は誰にも会わずにすんだ。
汗を流したあとラウンジで暇を潰し、時間を見計らい、再びタクシーに乗り家に帰った。
「ただいま」
何食わぬ顔でドアを開けたが、部屋の明かりは消えていて、いるはずの彼女の気配はなかった。
眠っているのか?
そっと寝室のドアを開けたがそこにもいない。
もう深夜1時も過ぎているのに、こんな時間にコンビニにでも行ったんだろうか?
けれども、なんとなく、もっと長い時間この部屋には誰もいなかったんじゃないかという気がした。
水を飲もうと冷蔵庫を開けるとピンクのソランデカブラスの隣には弁当用の作りおきのおかずが入った密閉容器がいくつかあった。
「やっさしぃ。作っておいてくれたんだ。」
炊飯器のタイマーも午前6時にセットしたあった。
今から弁当を仕込む必要もないからと、リビングのソファでゆっくりとSNSをチェックした。
20分ばかり経ったが彼女は帰って来なかった。
さすがに心配になってLINEを開いて愕然とした。
メンバーがいません。
え?どういうこと?
最後の会話は確かに昼間の彼女とのやり取りだ。
女と逢うためについた嘘のLINE。
「今日、泊まってもいい?」
「うーん、帰り何時になるか判らないよ?😖🌀もしかしたら朝🌅🐔になるかも~😅」
「わかった」
俺はなにを呑気に絵文字なんか使っているんだ?!
裏垢でふたりだけで繋がっていたTwitterもインスタも確認したが彼女のアカウントはきれいサッパリ消えていた。
電話をしても通話中の電子音が流れてくるだけで、どうやら着信拒否されているようだった。
状況が掴めないまま全ての部屋、バスルームやトイレやクローゼットの扉まで開けて見たけれど、彼女は何処にもいなかった。
かくれんぼをしているわけじゃないんだけれど。
しばらく意味もなくリビングをうろうろして、ふとダイニングテーブルに目をやると、そこには彼女にプレゼントしたはずの指輪がケースごと置いてあった。
なんだ、そうか、そういうことか。
鈍い俺はやっと気がついた。
彼女は自分の意思でいなくなったんだ。
良かった。
誰かに連れ去られたりした訳じゃなかったんだ。
ああ、良かったよ。
それならいいんだ。
ちっともよくないけれど、、、
ダイニングの椅子に力なく腰を下ろし、しばらくぼんやりした後、タバコを吸おうと思ったが、さっき女の部屋で火を着けたのが最後の1本だったことを思い出した。
仕方なくコンビニまで買いに行ったが、帰り道、コンビニとマンションの中間地点で大粒の雨が落ちてきた。
ビニ傘を買うにしても家に帰るにしてもどっちみち同じくらい濡れる。
当然家に帰る方を選択した。
走って帰る気力もなくなるほどすぐにずぶ濡れになった。
そういえば、俺の傘、どうしたっけ?
最近はタクシーで移動してばかりであまり傘をさすこともなくなった。
最後に使ったのはいつだろう?
そんなことを考えながらマンションの前まできたら、いつか、やはりこんな大雨の日の情事の後、朝になったら嘘のように雨が上がっていて、そのまま女の部屋に忘れてきたことを思い出した。
部屋に着いて玄関でずぶ濡れの靴と靴下を脱いでいると、傘立ての中で彼女が忘れていった赤い傘が持ち主の帰りを待っていた。
彼女が濡れないように朝までにこの雨が止んでくれたらいいんだけれど、、、
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