第26回・騒々しい
正直、私は誰にどう思われようと気にしない。
嫌われたくない?恥をかきたくない?そんなことで、この先の選択肢が少なくなったり、自分の世界が狭くなってしまうのを避けたいからだ。
私は私に生まれた以上、私の人生を誰にも縛られることなく生きたいし、他人が私の人生を生きるわけではないので、周りからの評価や感想なんて関係無いと思っている。
ただ、私だって大勢の中に身を置いて生活をしているので、最低限の常識というか、良識は持って行動しているつもりである。
私にだって、それくらいのことは標準装備されている。
中には、他人からの目を気にして、それに合わせて自分を擦り減らしながら生きている人間もいるかと思うが、別にそれに関しても、それはそれで、良いも悪いも思わない。
自分が他人からの目に対して無頓着であるから、当然のこと、他人に対して私も無関心でいたいだけだ。
それだけである。
誰かにとって都合の良い存在でいることは、自分は求められている、といった気にもなれるだろうから、心地が悪いものでは無いと思う。
ただ、他人の望むイメージ像にばかりに気を配っていたら、自分の目の前に出来た落とし穴にも気付けずに、結局は笑われながら落ちていく羽目になるかもしれない。
もしくは、利用されるだけ利用される結末になるかもしれない。
『献身的』という言葉は、すごく聞こえが良く、素敵なことのように使われているが、素直な人間を勘違いさせその気にさせる催眠術だ。
人間は使い捨ての便利グッズではない。
ここ数年、名の知れた有名人にも数々と起きている現象。
他人からイメージが勝手に作られてしまうパターン、またその逆で、自分からイメージに準ずるように振る舞ってしまったパターン、どちらもそのイメージからはみ出した瞬間に…といった感じだ。
「あんな人だと思わなかった」「イメージと違う」。
そんな勝手に『理想像』を当てはめては期待しておいて、それと違うと否定するのは、それこそ勝手である。
『想像』はあくまでも『想像』であって、『フィクション』だ。
頭の中にある以上は、推測・予想・願望であって、必ずしも現実・真実ではない。
最近は、それを勘違いしている人間が多いので、ある意味この現実世界は、リアルであってもフェイクだらけなのかもしれない。
『想像すること』がいけないのではない。
『想像』は現実を探るための、ひとつのツールや過程だと、私は思っているのだが…。
嫌われたからって、恥をかいたからって、死んでしまうわけではない。
他人からの評価や様々な声や反応が、自分にとってヒントになることはあっても、自分を作るのは結局のところ自分自身だ。
自分がどう思うかだ。
まぁ、その辺はご想像にお任せするけど。