風船

ぺちこさん×郁美ちゃん

タイトル:『彼は母の手のひらのなかに』

「彼(か)の歩幅 30センチにも満たぬ 母に引かれて 歩め歩めよ」

久しぶりに再会した郁美は、大学時代に比べてずっと凛とした表情をしていた。

「母になる」とこんなにも風貌から芯の強さがにじみ出るのかと感心する。私の親友、宮谷(みやたに)郁美は大学在学中に妊娠をし、現在は一旦休学をして育児に専念している。

在学時代、それほど郁美との仲は近しいものではなかった。単なる学友といった距離感。関係が急接近したのは、大学の洗面所で手を洗っていた際、隣の個室からげぇげぇと吐き戻す声が聞こえたあの日からだった。

個室から出てきた郁美は真っ青な顔をしていたため「どうしたの?体調悪いの?」と声をかけると彼女は「誰にも言わないでね」と深刻な表情をして「妊娠したの」と今にも消え入りそうな声で私に告げたのだった。つわりが酷いのだと続けて言う。

相手は誰かと聞いたら彼女はうつむいて黙り込んでしまった。
これまでの郁美のイメージでは無謀な行動をするタイプではないから、もしかして性被害にあったのではと心配になり「郁美、警察行こうか?」と促すと彼女は首を振り「相模くん」と一言だけ呟いた。

……相模。理学部のあの男か。
相模くんはキャンパスでも有名なモテ男で、さほど顔も良くないくせにやおら女に好かれているのだ。性格に癖があるので私は彼を好きになれない。彼女がいるのにも関わらず、四六時中女に囲まれているような男性は、私はすきじゃない。

郁美を落ち着かせるために彼女の手を引いてカフェテリアに向かった。彼女の手は死人のように冷たくひんやりとしていたことを覚えている。炭酸なら飲めると言うのでペリエを2本注文した。
郁美が父親の名を告げたのは友人のなかでは私だけだと言った。「ぺちこは口が堅いから。私、馬鹿だよね、おろすかどうか悩んだけど、やっぱり決断できなくて」彼女の瞳からほろほろと涙が伝う。

彼女の背を優しく撫でて、うんうん、と彼女の話に耳を傾けた。妊娠というものは言わずものがな女性にとって大事件だ。産むか、おろすかだけの話しではない。恐らく相模くんは認知すらしないくそ野郎と推測する。
シングルマザーの選択は彼女にとって棘の道だろう。堕胎の選択だって生易しいものではない。
さらにそれが、付き合ってもいないクズ男の子どもだとしたらなおさらだ。
不安、やるせなさ、失望、絶望。郁美と話をしていると、声の振動から自身を責め立てる感情を汲み取ることができた。

この時の郁美の親友は東野茉里だったが、茉里の当時の彼氏が相模くんだから、茉里に打ち明けられるはずもなかっただろう。追い詰められた瞳を見て、改めて彼女に同情する。
どう答えていいかわからない私は、バッグからブルートゥースイヤホンのケースを取り出して、「ちょっと失礼」と言うと片一向のイヤホンを郁美の耳に装着させた。もう片方は私の耳に突っ込む。

「今の郁美になんて声かけたら正直わからないけど、私、郁美のことちゃんと支えるから。このことも誰にも言わない。できることがあったらなんでも言って」

そう言ってスマートフォンを操作して、少しでも彼女の気持ちがフラットになるような音楽を選択した。心の底からリラックスできるプレイリスト。片耳で小さく流れてくる曲を聞きながら、もう片方で郁美の心境を吐露させた。
「どんな決断をしても、私は郁美の味方でいるからね」
涙でぐしゃぐしゃになった郁美は私の首に抱きついて、声にならない声でぺちこ、ありがとうと繰り返した。

***
ゴールデンウィーク。八王子のロータリーで12時ちょうどに待ち合わせをした。10分遅れて到着した彼女は、大きなママバックを肩にかけ、ロングスカードにスニーカー、左手に小さなお子さんと手をつないで小走りでやって来た。
「ぺちこ、ごめんね遅れちゃって。この子のトイレ行ってって」
郁美は申し訳ないと何度も頭を下げる。
「そんなそんな、いいんだよ、気にしないで。そういえば会うの1年ぶりくらい?ぼっちゃんも大きくなったね、こんにちは誠一君」
郁美が子どもに自分で挨拶するように促す。彼はえへへと照れ笑いしながら、「こんにちは!みやたに せいいちです!さんさいです」

まだ舌っ足らずな彼は自慢げに指を3本立てて見せた。よくできました、誠一君、かわいい、かわいすぎる。さんさい。
「ぺちこ、お腹減ったね。ごはん食べよう」
郁美の希望するランチは、意外にもマクドナルドだった。え?マック?まじまじと聞き返すと、いつもおうちでご飯食べているから、今日は思い切って体に悪いものを食べたいそうだ。
誠一君は良いの?と聞いても、たまには大丈夫だよと笑って答えた。郁美は日々逞しい母親へと進化している。

ふと誠一君の足が止まる。彼の視線の先には色とりどりの風船があった。住宅見学会の広告としてアルバイトの女性が子供に風船を配っているようだ。
「ママ、ぼく、ふうせんほしい。あかいのほしい。」
郁美のロングスカートの端っこをぐいぐい引っ張る坊っちゃん。え?今?荷物になるから食べ終わってから貰いに行こうよとなだめる郁美ママ。

「あとでだと、確率論としてあかいのがなくなる可能性がたかまるでしょ!ぼく、いまほしい!」

引きさがらない坊っちゃん。何?今「確率論」とか言った?さんさいが「可能性」とか言う?さすが理系の申し子、相模くんの子供は違う。確実に彼の血を受け継いでいる。
はあ、やれやれと言って郁美がアルバイトの女性にすいませんひとついただけますかと訊ねる。赤い風船をゲットして誠一君はふんわりと笑った。

今日の郁美は以前と比べて食欲旺盛で、エグチのセットをモリモリ食べる。誠一君は食べる前にハッピーセットのおもちゃの時計の分解をし始めたから、ちょっと誠一君、おもちゃ壊さないでハンバーガーを食べてくださいとママは憤る。

「シングルマザーってやっぱり大変?」
2人のやり取りを微笑ましく見ていて、ふと口からこぼれてしまった。
「そんなことないよ……ってかっこよく言いたいけど、めちゃくちゃ大変だよ。今は親に頼ってお金出してもらえるけど、そうも言ってられなくなるし、持ち歩く荷物もめちゃくちゃ重いし、いきなり誠一が意味不明なことしたりするし」
「意味不明なこと?」
「うん、なんか思いついたとか言い始めて、ノートに良くわからない数字を書きだしたり、3の倍数でアホになる芸人が昔いたでしょ?突然、あれの真似したりするんだよ。あんな古いネタ、一体誰から教わったんだろう」
「あはは、なんか誠一君変わってる。面白くって見ていて飽きないね」
「そうねえ。面白いんだけど、育てる側はこの先がおぞましいよ。何考えてるのかわからなくて」
そういって外国人のように両手のひらを天に向けて肩をすくめた。

この日、私は摩訶不思議な経験をした。
マクドナルドを出て、3人で信号待ちをしている時、突然強い風が吹き、誠一君は握っていた風船の糸を思わず離した。
強風に風船が煽られ、風船の糸を再び捕まえようとした誠一君は車が往来してる横断歩道に駆け出して行ってしまった。

「誠一、ダメ、危ない!」
郁美が叫んだ瞬間、誰にも信じて貰えないかもしれないけど、ぴたりと目の前にある世界が止まったんだ。ねえ、信じてくれる?

あと数十センチで誠一君に衝突寸前のプリウスも、羽ばたくハトも、郁美のたなびくスカートも、赤い風船も、誠一君自身もすべて、すべて私の視界に入る世界は止まっていた。
時が止まっている?私だけが動ける?そんな状態。

ふと横を見ると、口の横から血を流し、胸に包丁が刺さり、足はなく、全体的に透けた男が、両手を胸の前で合わせている。
あなたは……。
彼は唇をゆっくり開いて、私に懸命に何かを伝えようとしている。
「た す け て」
彼の声は聞こえない。けれど、開いた唇の形で彼の意思をはっきりと理解した私は一気に踵を蹴って、横断歩道上の誠一君のもとにダッシュして彼を抱きかかえ、走って歩道へと戻った。
と、その、刹那、時が動き始めた。
大きなクラクションを鳴らしながら急ブレーキをかけるプリウス、羽ばたくハト、郁美のふわりと揺れるスカート、赤い風船は高く急上昇した。

「こら誠一!飛び出したら危ないでしょ!」
条件反射のように郁美が怒鳴ったあと、誠一君を抱っこしている私を見て、おかしいなと不思議に首をかしげる郁美。対して誠一君は知ってか知らずかまたふわふわと笑っている。
「誠一、ママと約束してね。赤は止まれだからね」
はーいと元気な声で彼が答える。

彼は亡くなったあと、しっかりと彼女たちを見守っているのか。ただの女好きだと思っていたけど、彼のなかで何らかの心境の変化があったのなら、私はとてもうれしい。それがもう死んじゃったあとだったとしても。

「ねえ、ぺちこ、このあとカラオケいこうよ。大森靖子めっちゃ歌いたい」
うん、と頷いて、私、誠一君、郁美と三人で横並びになって手をつなぐ。今度は不注意に飛び出しなんてさせない。

さんさいの誠一君の手のひらはちいちゃくて、かわいくて、あたたかな血液が流れている。きちんと、彼は現在進行形で生きている。
あの世の彼とこの世の彼女のお子さんが健やかに育つよう、これからも私は郁美と誠一君のいちばんの味方でありたい。

ふと、後ろを振り向いたら、体が透けている彼が深々とお辞儀をしたあと、ふんわり笑って、そしてこの世から姿を消した。

摩訶不思議 この世とあの世を 繋ぐ糸 神は、あなたは 存在するの

(了)


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あとがきにかえて

※「ら、のはなし」は順不同で掲載致します。ネタが思いついた順の投稿になりますため、ご了承をお願い致します。

今回はぺちこさんの「ら、のはなし」(いくみちゃんと大親友になってマクドとかでずっと辛辣な話で盛り上がりたい)をお送りいたしました。
企画に乗っかってくださいましてありがとうございました。

辛辣な話とのご要望でしたが、描くのが少し難しかったのでかなり方向転換をさせて物語を組み立てました。ごめんなさいごめんなさい。
そして、今回はぺちこさん視点で物語を綴ってみました。

ぺちこさんのイメージは以下の通りです。
・淡々とした日記、時々感傷的。
・短歌と音楽が好き
・真摯な態度で物事に対峙する。

そんなぺちこさんは、郁美ちゃんと相性ばっちりだなと思います。
あと、これどうでもいい話ですけど、郁美ちゃんの名字をはじめて名付けました。
宮谷郁美。

こんな「ら、のはなし」でしたが、気に入って頂けたら幸いです。
ぺちこさん、改めて、ご参加頂きありがとうございました。

#ぺちこさん #コラボ #相模くんと郁美ちゃんシリーズは削除済みです
#小説 #ら 、のはなし




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