未来手紙事務局 1/6
女は柔らかに私に舌を絡ませてくる。
ほっそりとした腕、その先の手のひらで腰から胸へと愛撫を続ける。ひんやりとしたやわらかい手のひら。
ベッドのなかの私は一糸纏わぬ姿で見知らぬ女と肌を重ねようとしていた。
滑らかな手で弄られている中で私は迷っている。このままこの女と行為を続けてよいものだろうか。
そもそも、女性同士の行為の場合、その終わりとはいったい何を指すのか。
男女間の行為であれば、この後の流れを非常に簡略化して言えば、挿入と射精とで一連の流れは終了となるだろう。こう言ってしまえば身も蓋もないが、詰まる所の手順はそうだ。
一方、女性同士の場合はどうなのか、なにをもって終了とみなすのか。お互いが達するまで手や舌で愛撫をして完了か。経験がない故に想像かつかない。
男性との行為ならもちろん経験済みではあるが、女性同士の行為は未経験である私にとって、それはまさに未知との遭遇であった。
ところでなぜ私はこんな状況に巻き込まれているのか、女のからだを全力で拒否すればいいのか、どうすればいいのか決めかねているうちに女の手は下腹部へと延びていく。
女に身を委ねるべきか、反発すべきか考えあぐねているところに、パッヘルベルのカノンがどこか遠い場所から流れてくる。誰かに祝福されるような心地よい音楽。決断できない私はいつまでも迷いの中にいた。
ハッと目が覚めた。カノンは枕元のスマートフォンから繰り返し流れているアラーム音であった。スマートフォンのアラームを止めると、画面が2015年9月10日9時00分と表示されている。
ふう、とため息をついた。夢見が悪い。額にも背中にもびっしりと汗を掻いていた。
どういうわけか夢の中で私はどこの誰とも知らぬ女と行為に及ぼうとしていた。
私はレズビアンでもなければバイセクシャルでもない。特に女性に興味があるわけでもない。最近欲求不満だった? まさかねと自分を笑った。
まだぼんやりと女の感覚があったので、シャワーを浴びてから朝食を摂ることにした。
バスルームから出て、バスタオルでからだを巻き、肩まである髪の毛にドライヤーをあて、下着を身に着けてから白いブラウスを着てジーンズを履く。9月と言え、まだまだ日差しは強い。それから、極簡単に化粧をする。30代に入ってからうっすら顔にシミが目立つようになった気がする。それでもべったりファンデーションを塗るのは好きではなかった。
腕時計はつけるが、そのほかのアクセサリーはしない。3か月前までは右手の薬指に金の華奢なリングをはめていた。恋人から誕生日にプレゼントされたものだ。しかし3月前に「なんとなく」というひどく漠然とした理由で振られてしまった。あっけにとられてそれ以上追及できず、そのまま別れに至った。想像でしかないが、おそらく他に好きな女でもできたのであろう。それからはまだ新しい恋人はいない。いつもよくわからない理由で振られ、特に原因究明もしないまま恋愛は終了する。32歳にもなってふわふわとしたいいかげんな恋愛しかしていない。
簡単な朝食を食べながら、行儀は悪いがスマートフォンで夢占いのサイトを開いた。
「性行為」の項目を調べる。夢占いの「性行為」の項目は意外にも多岐に渡っており、夢を見ている最中、満足をしていたか、不快な気持ちを抱いていなかったか、異性、同性どちらとの行為だったか、近親者、老人などとの関係ではなかったか、行為を第三者に盗み見られたか等によって深層心理が異なるとのことだった。
同性との性行為の場合、夢内に登場した人物と無意識で親しくなりたい願望ある。またその人物に憧れている場合にもその人物と性行為に及ぶ夢を見ることがある、とあった。
夢占いは所詮あてになるものではないことは十二分に理解している。
夢占いを熱心に信じているわけではないが、なんとなく夢の内容が腑に落ちないときなど、参考程度にこのサイトを閲覧する。診断結果に納得できる時もあれば、まったくしっくりこないときもある。言ってしまえば結局は自己満足だ。
以前、何かの夢を見たときの診断結果が「火事にご用心」だった時にはさすがに笑ってしまった。
夢の中の女は顔の造りすらぼんやりした人間で、少なくとも知人や友人として認識できなかった。性行為に及ぶことは不快だったかと自問する。どちらとも言えない。全力で拒否しなければならないとも思わなかったし、かといってすんなり「ではいたしましょう」とも思えなかったのだ。
夢の中でも私は優柔不断だった。いつだって思い切りが悪い。夢の中ぐらい、同性と行為に溺れたって誰も咎める人などいないのに。
「無意識で親しくなりたい願望、ねぇ」
食パンをかじりながら、ここ最近の出来事を思い返してみたところ、ひとつ心あたりがあった。
私の所属先に以前から付き合いのある同僚の異動が決まったのだが、正直言うと私はこの同僚が苦手で彼女の異動を良くは思っていない。彼女の異動が決定してから私の胃はキリキリと悲鳴を上げ始めているから、無意識では親しくなるまで行かなくとも彼女と穏便に過ごしたいという願望があることは十分に考えられる。
この同僚―中村さんの性格を少しフォローすると、根はいい人ではあるし、数年前に同じ事業所で勤めていた際は仕事もまずまずこなしている様子であった。ひとまわり歳の離れた私に懇意にしてくれていることも事実ではある。しかし、45歳という歳の割に少し精神的自立ができていないと説明すればいいのか、人に頼りがちな性格で、ネガティブな傾向にあるのが問題なのである。
例えば、中村さんと同じ建物内の異なる事業所で勤務していた頃の話。
事業所は違っても同じ休憩室を利用することができたので、中村さんとは時間が合えば一緒にランチを摂ることがあった。その時、彼女はこうこぼした。
「わたしの事業所の空調が寒いの。みんな寒いって言っていて、このままじゃ体調が悪くなっちゃうよ。ほんと、なんとかならないかなあ」
と。私は軽い気持ちでそれじゃあ上司に空調が寒いから温度上げてほしいって言えばいいんじゃないですか? と私は提案した。すると中村さんはこう返した。
「上司には言っているよ、でもぜんぜん動いてくれないの」
中村さんは大きなため息をついた。
直属の上司に言ってだめならマネージャーにお願いしてみてはどうでしょうか? そういうとこの世の終わりのような顔でかぶりを振って、甘えた声で「つむぎちゃん、なんとかしてくれない? 」と言うのだった。
このような感じで、中村さんと会話をするたび、彼女はどこからかネガティブな情報を持ち出して、いかに自分が大変な目に合っているのかを切々と話し始めるのだった。
中村さんと会話をすると、瞬く間に彼女の頭上にもくもくと雨雲が現れ、しとしとと彼女に雨を降らせている妄想で私の頭はいっぱいになる。雨に降られ、ずっしりと重くなる中村さん。あら難儀なことですね、といつも心の中で思ってしまう。
結局この件は、中村さんが会うたびに「寒い寒い」とうるさいので、私がビルの管理課に掛け合って、空調問題は解決した。らしい。
またあるときはこんなことを訊ねられた。
「つむぎちゃんの事業所のマネージャーってどんなひと? 」
当時所属していた事業所のマネージャーは、あまり面倒見のいい人ではなかったので、正直にこう答えた。
「そうですね、あまり面倒見のいい人じゃないですね。なにかうちのマネージャーに用事でもあるんですか? 」
そのあとの彼女の話で、今所属している事業所ではいろいろと不満があるので異動を検討しているが、現在のマネージャーに異動の件を相談したら、お好きにどうぞ。でも私はあなたの次の異動先は紹介しないわよと冷たくあしらわれたらしい。
私の会社では各事業所ごとに社員の募集をしているウェブサイトが存在しており、サイトから異動希望を提出ことができる。中村さんのマネージャーからはそのウェブサイト上から希望する事業所を選択するよう指示があったとのことだった。
中村さんとしては職場の雰囲気もわからない事業所に異動するのは不安で、そこでなんとかして藁をも掴む思いで私に相談し、できれば私の事業所のマネージャーのコネを使用して新たな事業所への橋渡しをしてほしい、とのことであった。
中村さんの異動に伴う不安な気持ちはわからないでもない。
しかし今まで所属した事業所でどのような働きをしてきたかもわからない、言ってみれば海のものとも山のものともわからない人間の人事異動手配を、その人間の面倒を、私の部署のマネージャーが見る必要がどこにあるのか理解ができなかった。
下手をしたら異動手配した先で中村さんが失態を犯した場合、紹介した側のマネージャーの信頼が失墜する可能性だって十分に考えられるのだ。また、見知らぬ人間の異動願いの話をしたところで、損得勘定で動くあのマネージャーがよろこんで話を受けるとは思えなかった。話を伝えた瞬間、なぜ俺が、と顔をしかめる姿が頭をよぎった。
そしてまた、なぜ私が特別仲が良いわけでもない中村さんの異動手配のお手伝いをしなければならないのかも理解できる話ではなかった。
異動の件を中村さんから持ち出されたあたりで、彼女とは少し距離を置いた方がいいと感じていた。彼女は人を平気で使う人間なのかもしれないとうっすら感じた。
そんななかで先日中村さんから次の異動先がやっと決定した、つむぎちゃんと同じ事業所になったと嬉々としたとLINEが入り、対照的に私の気持ちはとても重い。その日から胃がキリキリと痛むようになった。
来る、きっと来るきっと中村さんから質問攻めにされる、いいように使われる…とじりじりした気持ちになっていたら、やはりLINEで昨日連絡が来ていた。
「そっちの事業所、どんな感じ? 仕事難しい? クレームは来る? 上司はいいひと?ごはん食べるところたくさんある? 駅から事業所近い? あとさ…」
質問は延々に続くように思われた。ああ、と天を仰ぎ、うんざりした気持ちになった。
これ以上関わっていたらいずれは事業内容の不明点も全部LINEで質問されそうだ。コンプライアンス的に考えたって、執務室以外で業務内容を共有するのは社内の違反行為にあたる。
違反行為が第三者に知られる可能性は低いとはいえ、あまり気分のいいものではない。
いや、そうではない、中村さんの仕事の面倒を見るのが嫌なだけだ。
社内で出くわすかもしれないからLINEのブロックはさすがになあ、と躊躇して、それから中村さんのLINEは既読後に返信はしないままにしている。この優柔不断さが彼女に付け入られる要因なのだろう。
彼女とはこれ以上仲良くなりたいわけではないが、険悪な仲になりたいわけでもない。
結局のところは嫌われたくないだけなのかもしれない。彼女に、というよりも彼女が私の悪口を広め、それを信じた共通の友人から嫌われるのが嫌なだけなのかもしれない。
そこまで考えて、人から聞いた悪口をうかうかと信じて私を嫌うような人とは遅かれ早かれ人間関係が薄まっていくのではなかろうかと考えた。
時間の経過とともにいつかぷつりと切れてしまう人間関係ならば、恐れずに堂々と嫌われたらいいんだ。
自分をなんとなく奮い立たせてからさっと残りの朝食を食べ終え、食器を洗い、薬箱に入っていた胃薬を飲んでから出勤の準備をする。
私の勤め先はシフトが早番、遅番とあり、早番は9時から18時まで。遅番のシフトは11時から20時までとなっており、遅番シフトだと14:00から15:00の間に1時間休憩を挟む。
今日はシフトが遅番なので10時30分に家を出れば出勤の打刻時間に間に合う。
自宅から勤務先までは自転車で通う。大抵は10時50分頃に打刻している。
アパートの外階段を使って1階まで降り、玄関口に設置してある郵便受けを開けると封書が1通届けられていた。
宛名には「坂本祥子様」と記載されている。
私の氏名は坂本つむぎであり、坂本祥子ではない。一人暮らしだし家族にも親戚にも「祥子」は存在しない。宛名は異なるものの、住所は私の現住所と一致している。
「祥子ってだれ…?」
思わずつぶやいた。
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