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【掌編小説】真夜中に、お菓子なお歌を
何をやってもうまくいかない日には、真夜中にひとりキッチンに向かう。
シンク上の紐を引くと、蛍光灯は何度かチカチカとまばたきしたのち、ぱっと明かりが灯った。
深呼吸をひとつ。アナログ時計がかちりとなって金曜日から土曜日に日付がスライドして、わたしだけの真夜中がはじまる。
少し気を許すと今日あった嫌なことがもわもわと霧のように立ち込めて、あっという間に私を丸め込んでしまう。
育てていた豆苗に虫がたかっていたとか、通勤中に後ろを歩く人に靴の踵を踏まれたとか、廊下で先輩とのすれ違い様に挨拶しても無視されたとか、お客様に「あなたその敬語は間違っているわね」とウザ絡みされたとか、突然の大雨に見舞われたとか……。
ひとつひとつは大したことないことだけど、一日のうちにまとめてかかられるとなかなかどうして地味に痛い。
今はそういったネガティブな感情にはなるべく触れないようにして、まとわりついてくる霧をしっしと手で追いやって、可能な限り気持ちをフラットにするように意識を傾ける。
戸棚からホットケーキミックスを、冷蔵庫から卵一個、牛乳、バターを取り出し、シュガーポットも調理台に乗せれば準備はオッケー。
20gのバターをレンジで溶かす。ボウルに溶かしたバター、卵1個、砂糖20g、牛乳大さじ1、バニラエッセンスを数滴垂らして攪拌し、ホットケーキミックスも加えてゴムベラで混ぜる。
「料理とは、いちばん簡単にできる芸術である」とある有名な芸能人がのたまっていた。
夫と結婚して10年、料理もそれなりに出来るようにはなったけれど、わたしのそれはアートかと言われれば、まだまだ遠い代物に違いない。
結婚してまもない頃、夕ご飯のリクエストを訊ねたら「コロッケが食べたい」と答えが返ってきた。コロッケといえば、ロールキャベツや餃子に並ぶ、家庭料理のなかでもめんどくさい料理ランキング堂々の殿堂入りだと思うのはわたしだけだろうか。
夫のリクエストに一瞬怯んだが、任せて! と胸を張った。
仕事帰りに疲労感でフラフラになりながらもコロッケを一から作って揚げに揚げた10年前のわたしを、ズルをして惣菜コロッケを自分で揚げたと言わなかったわたしを、いいこいいこして、ぎゅっと抱きしめてあげたくなる。あんたよくやってたよ。
夫としてはお惣菜のコロッケを買ってくるものだと思っていたらしい。ほくほく顔で揚げたてのコロッケをはふはふ頬張りながらまさか作るとは思わなかった、ごめんごめん言葉が足りなかったね、と当時の夫。
それ以来、「コロッケは買うもの」というのが我が家の認識なのである。買った方がコスパも良いしね。
むかしを思い出しながらフライパンに新しい油をとぷとぷと注いでいく。コンロに火を灯し、160度くらいの低めの温度に設定をする。
本来であれば生地を寝かしてからドーナツ型にくり抜いて揚げるのだけど、今回は大きいスプーンを使ってフライパンの澄んだ油にほい、ほいと次々入れていく。
ドーナツは落としたタネの倍に膨れ上がるから、ピンポン玉大で生地どうしがくっつくない間隔でそっと油に送り出してやる。
ドーナツを揚げている間にシナモンシュガーを作ろう。グラニュー糖があれば尚よしだが、今日は上白糖にシナモンを適量振って混ぜ混ぜする。
次第にキッチンに甘いバニラの香りが立ち込めて来て、思わず鼻をすんすんとしてしまう。
ドーナツが膨らんでいく様と同期してわたしの少し凹んだ部分がふくふくと回復して行くように感じた。
ぷかぷかと浮かぶ球を裏返して、きれいなきつね色になったところでキッチンペーパーを敷いた油切りバットに上げる。熱々のドーナツの半分だけシナモンシュガーを振りかける。夫は、シナモンが苦手だからね。
きつね色のいびつな球をいくつか掬い上げたところで、かちゃりと音がした。眠りから中途覚醒した夫が目を擦りながらも鼻をすんすんさせている。
「あなた、何やってるのこんな夜中に。料理?」
「ドーナツを……」
「ドーナツを?」
「うん。おーおお、君のためにドーナツ♪」
唐突に菜箸をマイクがわりに握って某ドーナツ店のあの歌を替え歌にして歌ってみる。
「ほう……。おーおお、味見させてドーナツ♪」
夫からの返歌があってほっこりした。思わず笑みがこぼれてしまう。そっちはシナモンだから、こっち食べて。
夫はアチアチと言いながら大ぶりのドーナツを掴み取ってかぶりついた。
「ん!んんんまい!
おーおお、真夜中のドーナツ♪」
「おーおお、しあわせのドーナツ♪」
隣室の住民に迷惑にならないように、深夜のふたりはいつまでもおかしな替え歌を口ずさんでは、ふぞろいのドーナツを口々に頬張った。
フライパンの中ではふっくらとしたまあるい球からちいさな泡たちがぷくぷくと歌うように合唱を続けておりました。
(おしまい)
☆ドーナツの🍩レシピはこちらのサイトを参考にしております。
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