ルージュ、7センチヒール、僕のすべてのはじまり(南 真人編)
これから始まる小説は「トライアングル・ドライブ」に登場する真人の物語です。幼少期、中学時代、高校時代と時間が流れていきます。
「トライアングル・ドライブ」では描かれなかった、涼子の彼氏を連れ出したあとの話も綴っています。お暇があればどうぞ〜
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僕のいちばんはじめの記憶は、4歳の頃に遡る。玄関先でお母さんの先の尖った赤いハイヒールに小さな足を滑らせて、鏡の前でうっとりと自身の姿を眺めているシーンだ。
狭い玄関でコツコツと音を立てて足踏みしてみる。いつか、足にぴったり合うヒールを履くんだと心に誓って。4歳の頃の僕は絶望なんてしていなかったし、僕の未来はキラキラと輝いていた。
幼稚園での僕は男の子より女の子の方が仲が良かった。走り回ることより女の子とおままごとやお姫様ごっこをして遊ぶのが好きだった。お迎えに来たお母さんが園内でエプロンをつけおままごとでお姉さん役をしていた僕を見つけると、エプロンのボタンをはずして、僕の手を引きレゴブロックで遊んでいる男の子たちの前に僕を連れて行き、その輪の中に座らせた。
「真人、おままごともいいけど、レゴも楽しいよ。ほら恐竜も作れるよ。こっちはお城!真人お城好きでしょう?ね、こっちで遊ぼう。お母さん、先生とお話ししたいことがあるからちょっとここで遊んでてね」
そう言うとお母さんは担任の岡田先生の方に小走りで向かった。残された僕はレゴブロックに目をやる。
僕は恐竜には興味がなかったし、お城そのものものも特段好きではなかった。僕が好きなのはディズニー映画に登場するお城の、そのなかで繰り広げられる華やかな舞踏会や、カラフルなドレス、ハンサムな王子様、ガラスの靴、ドラマを引き立てる様々な魔法だった。
だけど、4歳の幼い僕でも母親の真意を察した。男たるものレゴブロックやプラレールで遊ぶのが正解なのだろう、たぶん。
一方で僕はそうじゃないとも思っていた。遊びたいもので遊んで何が悪いんだ。頭の先から苛立ちがふつふつと湧き上がる。むしゃくしゃした気持ちが体中を埋め尽くしていくのを感じ、鬱憤が頂点に達した時、目の前にいた三井岳が握りしめていたレゴブロックを無理やり奪い取った。
誰のものでもよかった。そこに岳がいたから彼の小さな指をこじ開けて黄色のレゴブロックを奪った。瞬間、岳の左手が僕の頰を打った。
「おい真人!レゴで遊びたくないくせにこっちくんじゃねえ!真人の遊びたいのはレゴじゃないだろ。おまえはおまえのやりたいことをやれよ」
4歳のくせに岳はすでに口が悪かった。だけど、岳が言ったことは正しかった。親に言われるがままの自分が幼いながら情けなくてうわーんと泣いた。僕は、綺麗でふわりと揺れるスカートを翻して、ガラスの靴を履きたかった。
僕は普通の男子と違うと確信したのはそう、小学生の頃だった。
小学3年の頃、三井岳からクラスの女子で誰が好きかと聞かれて、好きな子って女子じゃないとだめなのと僕が聞き返したために、え?……え?と岳が困惑して聞き返したことを憶えている。 変な空気になったからそれからは適当に感じの良い女子を選んでその子が好きだと嘘をついた。僕は、岳のことが幼稚園の頃からずっと好きだった。同じ中学生に上がった今も。
岳の話しながら自分が楽しくなっちゃって話の途中で笑いだしちゃうところ、メガネかけて頭良さそうにしているのに全然勉強できなくて一次関数でつまずくほどの馬鹿なところ、けた外れに音痴なところ、運動身体だけは抜群で柔道をこよなく愛しているところなど愛おしい部分をあげたらきりがない。
きっと岳は覚えていないだろうけど、幼稚園の頃、スカートを履いた僕を見て岳が
「真人、オンナみたいでかわいいな」
と言ってくれたことをはっきりと覚えている。純粋にスカートを履いた僕をかわいいと言ってくれた。だってそのあと岳の提案で遊戯室で僕と岳の結婚式ごっこをしたくらいだから。永遠の愛をもも組の小さなおともだちの前で誓った。式の途中で担任の岡田先生が鬼のような顔で乱入してきてやめなさい!と怒鳴り込んで中断されたけど。岳との結婚式は僕の一生の思い出だ。
ところで、「あの女変だよな」というときの岳の顔はにやにやしてきしょくが悪い。彼は気づいていないかもしれないけど、ものすごい気持ち悪い顔している。岳にとっての「変」は彼にとって最大級の褒め言葉だ。「真人はまともでいいよな」とよく岳は言う。岳が僕のことを変だと言ったことは一度もない。僕が性的マイノリティであることも知らない。知ったところで岳の好む「変」にはきっと該当しないだろう。悔しい。
岳は恐らくは同じクラスの武藤いつみが好きだ。だっていつみは学年でもかなりの変わり者だから。
変わり者ではあるけれど不思議なことに彼女は性別関係なく周囲の人間を彼女のペースに巻き込んでいってしまう。僕は巻き込まれない。絶対に巻き込まれたくない。いつみを認めたくない。
薄々はみんな気づいている。彼女が一般的な中学生とは性質が異なることを。頭になにかしらの障害を持っていることを。彼女はいつもなにかしら忘れてくるし、何か足りない感じがするし、女なのに髪の毛がぼさぼさなときもあるし、突然何かひらめいて教室を飛び出してしまうこともあった。
そのくせテストの成績だけはどの教科も抜群に良い。僕が頑張って5教科の平均95点を取った1学期、彼女は脅威の平均98点を叩き出した。なぜだ。教師に賄賂でも贈っているのか。
ついこの間こんなことが起こった。給食の時間に何やら廊下が騒がしいと思って見やったら白い泡が廊下中にまき散らしてあった。泡?どこから?担任は一旦教室を離れ、しばらくして戻ってくると静かに言った。
中学3年生のいたずらによって消火器が2階、3階、4階の廊下にばら撒かれたということだった。合計6本の消火器が噴射され、問題の生徒たちはトンズラした。
なにゆえのいたずら。やたら頭の弱い生徒が多いなと薄々勘付いてはいたけれどこれほどまでとは。母校の程の低さに辟易した。
クラスメイトは非日常の体験に大いに興奮し、担任はあいつらがここまで幼稚だとは思わなかったとこぼして頭を抱えた。折しも学校中の空調施設が故障しており、9月上旬のうだる暑さに教師たちの頭脳はより一層働かないようだった。
どうすんだよ。消火器の泡ってあんなに量があるんだな…とつぶやいて担任は肩を落とした。その時いつみはいいこと思いついた!と言って立ち上がり弾丸のように教室を飛び出した。
いつみはどこにいったか。彼女は初めに校長室に行き、次に彼女の友人が所属する放送部へと向かったのだと後で聞いた。ほどなくして教室のスピーカーからぴんぽんぱんぽーんとお知らせの始まりの合図が流れた。
続いてスピーカーから流れて来たのはエヴァンゲリオンのヤシマ作戦の曲だった。教室がざわざわと沸き立った。え?なに使徒襲来?とみんなが顔を見合わせる。
「みなさんこんにちは、2年の武藤いつみです。ご存じのように、現在、我が校の廊下はやんちゃなパイセンのいたずらによって消火器の泡が撒き散らかされています。のうのうと給食の配膳なんてしている場合じゃない。しかも、午後から区内のお偉いさんが校長室にご来校予定だから、こんな廃れた学校だと知れたら私たちの学校そのものに確実に泥が付きます。進学も不利になるかも。
そこで私はさきほど校長先生と交渉して、いちばん早く廊下をピカピカにした学年全員に校長先生のポケットマネーでハーゲンダッツのアイスをおごってもらう約束を取り付けました。今、校長先生はダッシュでイオンにダッツ箱買いしにいっています。みなさん、さっさと廊下をやっつけちゃってダッツゲットだぜ!さあ、いったいったあ!」
ヤシマ作戦の音楽はフェイドアウトして、ぴんぽんぱんぽーんとアナウンス終了の音声が鳴るやいなや椅子から立ち上がったのは岳だった。彼は左手を手先までピンと垂直に挙げ、
「ミッチー、いっき、まああすっ!!」
と言うと両手を握りしめエヴァ顔負けに天を仰いでアオーーーーン!と雄叫びをあげた。なんかいろいろ混ざってるな。やっすい蛍光灯が爛々と岳を照らす。ホップステップジャンプで彼は雑巾を手に取り廊下へ飛び出した。他の男子もうおーっ!と叫んで雑巾を手に取り我先に廊下へ飛び出した。女子もぞろぞろと彼らに続く。
「バニラ!」「抹茶!」「ストロベリー!」「ダッツ、ダッツ、ハーゲンダッツー!」
事実、歓声を挙げた生徒諸君によって各階の泡だらけの廊下はあっという間に拭き取られていった。校長をはじめ、全校生徒を丸め込んだいつみのエサぶら下げ掃除大作戦は見事の一言だった。掃除のあと、全校生徒に食後のデザートとして配られたハーゲンダッツのアイスクリームをプラスティックスプーンですくいながら岳は言う。
「ダッツうめえ。なあ、やっぱりいつみって変な女だよな」
笑いながら僕に話しかける岳は普段以上ににやにやして心底気持ちが悪かった。いつみには何をしても絶対に敵わないと思った。もし僕が女に生まれていたら、岳を僕に振り向かせることができただろうか。いや、無理だろう。
いつみがそこにいる限り絶対に、敵わない。
「岳、僕の分のアイス食べていいよ」
そう言って僕はストロベリー味のハーゲンダッツを岳に押し付けた。え?いらないの?まじか。じゃ遠慮なくと喜ぶ岳。ほんといつみって、邪魔。皮を剥げば頭のネジが狂った障害者のくせに。
中学校を卒業すると僕と岳、いつみはそれぞれ別の高校に進学した。僕は都内で一番偏差値の高い高校、岳は私立の男子校、いつみは推薦で大した苦労もせずに都立高校へ進学した。高校に入学してから岳とはたまに遊ぶこともあったがいつみには会っていない。彼女とはもともとそんなに仲も良くないし。
高校2年の冬、僕が母校である桜中学の校門前を通り過ぎようとしたその時、前方から武藤いつみがこちらに向かって来るのが見えた。
いつみの姿を見て僕はぎょっとした。いつみの顔は中学の頃の顔つきとは全く異なる表情をしていたから。
中学生の頃はポニーテールが似合うファニーフェイスだったけれど、いま僕の前に立ついつみの髪はざんぎり頭だ。どういうテーマでその髪型を選んだのだろう。いつみの頭を叩いてみたってきっと文明開化の音なんてしない。何?いつみ自分でカットでもしているの?それにしても下手くそ過ぎるだろ。
12月も半ばを過ぎたにも関わらずいつみはコートを羽織ってはいない。彼女の紺のブレザーは埃だらけで、裾はほつれ、靴のような跡が無数に白く残っている。ダメージ加工でも憧れているの?
決定的にダサいのはスカートは履いておらず代わりに深緑のジャージのズボンを履いていることだった。
中学時代あれだけきらきらと前を向いていた彼女の瞳は澱んでどろりとしていた。そのくせ目玉がぎょろぎょろとして、ただ僕を見ているだけだろうに睨みつけているようにも見えた。あれ、なんかおでこが赤いな。どこかぶつけた?
頬は痩け、まだ16歳の彼女の肌は荒れていた。特に唇がガサガサだった。彼女の身に不穏な何かが起こっているであろうことは一目でわかった。僕たちは校舎の前ですれ違った。僕は中学の頃からいつみが好きではないからそのまま無視して通り過ぎることもできた。でも無視できなかった。
これは僕の勘だけど、放っておいたらいつみが死ぬか、いつみが誰かを殺すかするだろうと思った。僕の直感は自慢じゃないけどよく当たる。
「いつみ、久しぶり」
いつみは一瞬黙って、ジャージのポケットから手帳を取り出すと、僕の顔と手帳と見比べた。
「……南君、で合ってるよね?」
「合ってる。え?なにその確認」
そういえばいつみは中学の頃から常に手元に手帳を用意してあった。一体、手帳に何を書き込んでいるのだろう。
「いつみが持ってるその手帳って何が書いてあるの」
僕が訊ねると彼女は少し身体を強張らせた。僕そんなおかしい質問してないけど。いつみは数秒黙ってから口を開く。
「私ね、ちょっと事情があって特定の記憶力が人よりも劣るの知ってるでしょ?だからね、大切なことはメモに残すようにしているの。人の名前とか、特徴だとか。ほら南君の名前と似顔絵も残してあるよ」
いつみはひとつひとつ言葉を選びながら慎重に答えているようだった。14歳の頃の無邪気で天真爛漫で、湧き出すエネルギーを全力で噴き出しながら生きているいつみからは考えられない話し方だった。何が彼女を変えたのか、それは彼女の今の姿を見れば自ずと見えてくる。
「いつみ。勘違いだったらごめんね。もしかして、高校でいじめとか受けてない?」
僕はいたって真剣にいつみに質問を投げかけた。数秒時間をおいていつみはゆっくり頷いた。
「うん。中学でさ、飯島涼子っていたでしょ?涼子と同じ高校通ってるんだけど、なんかさ、涼子に勘違いされちゃって。彼氏取ったとか言われてさ。全然そんなことしてないのに。それでさ教科書にイタズラされたり、上履き捨てたれたりスカート切られたり。髪の毛もこんなんにされちゃった。
馬鹿だよね頭のおかしい女なんてほっといたらいいじゃんね、そんなのほっときゃさ、あと1年ちょっとで卒業なのにさ、ほんと何が楽しいんだろうね」
「いつみ」
「だってさ、向こうが勝手に彼氏紹介してさ、彼氏が私の障害に興味を持って連絡先知りたいって言っただけだよ、なんでそれが私が彼を寝取ったって話になんの。話が飛躍しすぎじゃん」
「いつみ」
「なんでそれだけのことで私がやりまん扱いされて、なんで私が強姦されそうになんなきゃなんないの!私男と寝たことなんてないのに!ほんっと、意味わかんない!矢萩先生にもらった石も窓から投げ捨てたんだよ!もうなんか私、退学になりそうだし、あいつ最低だよ」
「いつみ!」
いつみが先ほどと打って変わって興奮してきたことを察知して、僕は大声でいつみの名前を呼んでから彼女の目の前でバチン!と両手を叩くとハッと彼女が我に返った様子が見て取れた。よし、いつみをこっちの世界に無事、引っ張ってこれた。
僕が今行った行為は中学の頃いつみが興奮状態に陥ったときに科学の矢萩先生が必ず取っていた行動だ。興奮していつみが入り込んだ世界から戻れなくなった時にこっちの世界に引き戻す方法。
矢萩先生はさらにそのあといつみを抱きしめて、大丈夫、大丈夫、いつみは悪くないよ大丈夫だよとなだめていた。僕はそこまでする気にはならない。
クラスの馬鹿はあいつら出来てんじゃないと揶揄する人もいたけど僕はそれはないと断言する。矢萩先生の子供もいつみと同じ障害を持った子がいるから放っておけないんだと先生から直々に聞いたことがあるからだ。
そのためか矢萩先生はいつみにとても甘かったと思う。我に返ったいつみが俯いたまま小さくごめんと謝った。
「謝らなくていい。でもちょっとだけいじめた側の気持ち、僕にも分かる」
「え?なにそれ」
「だっていつみは男に気を持たせるのがうまいんだよ。自分で気づいてないだけで」
「私、そんなこと一度もしてないけど」
いつみがまったくもって不本意だといった表情をした。思った通り、自覚ないんだね。
「いつみさ、岳と同じクラスになったとき『三井君と結婚したら、みついいつみになるね、回文になるね』って言ったの覚えてる?」
「なんとなく。それが何」
「……。やめた。今の流れで理解ができないなら一生理解できないと思うからいいや、教えない」
「なんだよ、言ってよ。私、ハンデ持ってるから行間読むの苦手なんだよ、教えてよ」
彼女のその言葉に僕は正直言ってイラついた。立ち止まっていつみの話に耳を傾けようとしたことを猛烈に後悔した。
「いつみさ、いつも調子良いくせに都合が悪くなった途端に障害者ヅラするのやめてくれない?そういうの、最高にイラつくんだけど」
僕の反発にいつみもカチンと来たらしい。彼女は右手の人差し指を自身の右頭蓋骨に当てて僕の顔ギリギリに顔を近づけて、今日イチの大声でがなった。
「事実、頭のネジが外れてる人間が!自分のことを障害者呼ばわりして、何が悪いのよ!
あんただって男の癖に三井君のことが好きな変態の癖に」
いつみはそう吐き捨てて僕の胸を手のひらでどん!と強く押した。やはり彼女にはバレていたのか。さっきの手帳にそういうの書いてあったんだな、きっと。行間読むのが苦手と言いつつ、いつみには変に勘がいいところがあった。別に隠していたわけではないが変態と言い切られると少し傷つく。
僕は中学の頃から岳のことが好きで、今も変わらず岳のことが好きだ。岳には好きだってことも、性的マイノリティってことも伝えてないけど。伝えたって想いが叶わないなら意味ないから。
あれ?と僕の思考は立ち止まる。僕はずっと「変」ないつみが嫌いだった。認めたくないけど根っこの部分では彼女を羨ましく感じていた。それは僕がずっと想っていた岳が変な人間に異様な興味を示していたからだ。
「変」と「変態」は同義語?いやいや、そもそも論として岳の恋愛対象は女だから例え僕が岳の好きな「変」に該当したって何かが変わるわけではない。
でももう少しこの変態性を極めれば岳の興味の対象になって、物珍しい目でいいから彼に愛でてもらえるかな。
もうなんだっていいや、岳のそばに居られれば立場や関係なんてなんだっていいよ。岳が僕のことをちょっとでも好きになってもらえたらそれでいいや。
そんな邪100パーセントの気持ちで、僕はしたたかにこの状況を計算した。いつみと一緒にいれば少しは道が拓けるかもしれない。苛立ちながらも同時にこれはいける、きっといける。そう確信した。ふと通りかかった人影を見ると、そこには岳がいて、僕らのいさかいを呆れた顔で眺めていた。ほら、役者は揃った。
12月18日 日曜日、19時。人気のない高架下の桜公園。
いつみを窮地に追いつめた飯島涼子に復讐するため、僕はある作戦を練った。作戦の内容はこうだ。
飯島は毎週日曜日に彼氏とこの公園で待ち合わせて逢瀬を重ねている。けれど人間不信に陥っている飯島は毎回彼氏を試すため30分遅れて到着するらしい。僕に言わせればこんな馬鹿なことはない。なぜ信用できない男と付き合えるのかまったくもって理解しがたい。
しかし、今回はその時差を利用する。はじめに彼氏が到着したところで女装した僕が彼を誘惑し、公園から連れ出す。そのあと遅れて到着した飯島をいつみがフルボッコにする。いつみはパワー型の障害者だからボコるのは余裕しゃくしゃくだろう。歯止めが効かなくなることだけ心配だけど。
さあ、話を戻そう。僕が今いる桜公園はブランコと、ベンチと、鉄棒だけがある小さな公園だ。浮浪者の多い隅田川沿いも冬場はさすがに生活が厳しいとみて、彼らはあたたかな駅の近くなどに撤退しているようだ。よかった。
薄ピンクのウールのコートを羽織った僕は、前のボタンをはずして胸を強調して歩く。ブラの中にはティッシュを丸めたものがぎゅうぎゅうに詰められている。金曜日、岳の部屋で作戦会議をした時にいつみがもういいっていってるのにもっと詰めたいといってブラにティッシュを丸めたものを無理やり入れられた。今日もいつみの指示通りの「あんこ」をブラにつめている。足元は7センチヒール。公園に到着したら鉄棒に寄りかかり飯島涼子の彼氏の到着を待った。
今頃、岳はいつみの高校に不法侵入していつみが矢萩に貰ったというアメジストを探している頃だろう。この極寒の師走の夜、うまくいくことを願うばかりだ。
昨日、僕は勇気を出してお母さんに僕のすべてを話した。お母さんごめん。たぶん、僕、性同一性障害だと思う。
そう伝えたらお母さんは笑って頷いてから「知ってた」とゆっくり答えた。お母さんから真人に聞かなくてごめんね。と謝られた。本当はね、真人が幼稚園の頃から気付いてたよ。いままで押しつけてごめんね。これからは真人が生きたいように生きようね、と僕の手を握って言った。
幼稚園児の頃の思い出がフラッシュバックする。レゴを岳の指から奪った瞬間、岳から思いっきり頰を張られ、おまえが本当にやりたいことをやれと怒鳴られた記憶。そのシーンは園児ながら強烈に覚えている。やりたいことをやったらお母さんに失望されるだろう。悲しい顔をするだろう。母子家庭の僕はお母さんを守る強い男でなければならないはずだ。例えば、そう岳みたいな力の強い、心も強い男にならなくちゃいけないと思っていた。
僕だってできればまともな状態でいたかった。成長とともに僕のなかの女が消えたらどんなに楽だろうと何度も思った。僕は生まれた時から他の男子と少し感覚が違った。でも、これから僕は、僕が本当にやりたいことをして、本当の僕を生きていく。
僕が昨日、パンプスと女性物のコートが欲しいと伝えたらお母さんはじゃあ今から買いに行こうと言ってそのまま手を引っ張られ伊勢丹に連れて行かれた。婦人服売り場に着くとお母さんは、真人の着たい服、履きたい靴を好きなだけ買っていいよと言ってくれた。お母さんなんでも買える魔法のカード持ってるからねといってウインクした。
店員さんは驚いていたけど、母親を連れた僕が事情を説明するとノリノリで試着に付き合ってくれた。よかったらショップにあるウイッグお着けになります?お客様、とってもお顔立ちがかわいくてらっしゃるからお似合いになると思いますよと言われて、ウイッグを装着し様々な服を試着して総額10万円近い買い物をした。こんなに楽しいならもっと早く真人とお買い物すればよかったと笑うお母さんの目じりには涙がうっすら浮かんでいた。
19:05 台東区と墨田区をつなぐ橋を眼鏡の青年がスマホを指でいじりながらこちらに向かって歩いてくる。少しだけ外見が岳に似ている。
涼子が教室で彼氏自慢を大声でするから特徴だけは知ってるといつみから聞いている。縁の青い眼鏡の垂れ目だそうだ。
やがて眼鏡の垂れ目の男が桜公園に足を踏み入れた。来た、飯島の彼氏だ。地獄の一丁目にようこそ。
僕はスマートフォンをコートから取り出す。グル―プラインの画面を最前面に出してタップする。
「ミッション壱、開始します」
すぐに既読が2になる。公園の入り口付近のベンチに座った飯島の彼氏と僕が立つ鉄棒は、ちょうど向かい合った位置にある。
僕はまだ視線をスマホに落としたままにする。すぐに相手を見つめたりなんかしない。僕に興味を持ってもらえなかったら意味がない。こっち向け、こっち見ろと男に念を送った。
ほどなくして青眼鏡の視線を足に感じた。ビシビシと視線を感じ取ることができた。
いいぞ、もっと見ろ。
僕は黒タイツの足をクロスさせる。刮目せよ、我が脚線美!
次にスマホをポケットにしまって背面に流れる隅田川を振り返る。ウイッグを指で払う。見てこの首筋のライン。線の細さなら渋谷を我が物顔で歩く女にも原宿を闊歩する女にも負けない。栗色の毛先を人差し指に絡ませる。細い指、品のあるマニキュア。
僕はいつみよりずっと女だ。その辺のくだらない女よりずっとずっと女だ。
もっと見ろ、もっと僕に魅了されろ、来い、来い、来い!
びゅうびゅうと吹いていた北風が、止んだ。静寂。
「おねえさん、ねえこんなところでひとりでいたら危ないよ。ほらここ人気ないし。暗いしさ。っていうかなに?待ち合わせ?さっきから待ってるみたいだけど、彼氏まだ来ないの?」
デレデレしながら眼鏡の垂れ目がこっちに近づいて話しかけてきた。
かかったな。どあほうめ。
僕はなるべく女らしい声を出すようにして
「そうなんです、デートしようって言うのは彼の方なのにいつも遅刻ばっかりで。なんか放って置かれちゃうんです。もう別れよっかなって思ってるんですけど」
「あー、ねー。毎回遅刻するとか信じらんないよね。俺の彼女もそうでさ。毎っ回遅れてくるんの。もうマジ最低。おねえさん、よかったらさ俺とどっか行っちゃおうぜ」
「えー、どうしよう」
「いいじゃん、ここ寒いでしょ?あ、そうだ、ソラマチの中でご飯でも食べようよ。俺おごるし。」
「うーん、どうしようかな」
「行こうよ」
「うーん、でも」
「じゃあさ、とりあえず寒いからお茶しながら彼氏待たない?」
「わあ、頭いい〜。じゃあ、お茶だけ、一緒していいですかあ?」
飯島って本当に男を見る目ないな。こんなくそみたいな男と付き合って何が楽しかったんだろう。眼鏡かけてれば誰でもいいんじゃねえの。穴があればいい男と同じで。おっとおっと、口が悪くなっちゃった。
僕の右手を握った男は「おねえさん、手が柔らかいね」なんて言う。僕はうそー、そんなこと初めて言われたうれしいー、なんて言いながら、お前ばかじゃんと思いながら、こういうのも悪くないなと考えながら東京ソラマチへと足早に向かった。ヒールの踵が靴擦れして痛いけど、これは僕の念願の痛みだ。
さっと取り出したスマホの画面に「ミッション壱、コンプリート」と打ちこんでまたポケットへ忍ばせた。 僕の口角は今日イチ高く上がった。
「俺いいとこ知ってんだよ」とご機嫌な男の手に引かれた僕は今、ソラマチの30階にあるイタリアンレストランにいて男は白ワイン、僕はジンジャエールで乾杯をしている。
困ったな、誘ったあとはノープランだった。僕にしては詰めが甘い。女になれたことで正直なところ舞い上がってた。
さて、連れ出したはいいがどう巻こうか。ベロベロに酔わしてとんずら?いや駄目だこいつがどれだけ酒に強いかまだわからない。
トイレに行く振りして逃げる?一番成功率が高そうだがここからは出入り口に近いから、最悪引き止められる可能性がある。
そうこう考えているうちにテーブルにエスカルゴのオーブン焼きとテールシチューが運ばれてくる。いい匂い。飯島いつもこんな美味しいの食べてるの?女ってやっぱりずるい。
結局デザートのクレームブリュレとエスプレッソまでがっつり食べた僕は、男の手に引かれてスカイツリーの第2展望台に登っている。「上から見下ろす東京っていいよね、綺麗だよね、ミナミちゃんのがもっと綺麗だけど、なんてあはは」とメガネが隣でわちゃわちゃうるさい。なんだこの展開。帰りたい、ご飯おいしかったけど僕は早くおうちに帰りたい。
僕は岳に興味を持ってもらうためにいつみに加担しているのに、岳がここにいないならなんの意味もないじゃないか。計算違い甚だしいな今日の僕は。よし帰ろう、一刻も早く帰ろう。
強制終了しよう。
「ねえ」
「なあに、ミナミちゃん。このあとさ」
「あのさ」
そう言って、僕はメガネの腕を取って、いつみのご指導によって盛りに盛られた胸をがっちり握らせた。
「ミナミちゃん!こんな人前で何っ、えっ?……えっ?」
男は胸の感触の違和感に気づいたらしい。パッド?にしては硬い?
頭の上にクエッションマークがたくさん浮き出ている男の前で僕は左手でウイッグを脱ぎ捨て、地の声ではっきりと男の目を見て言った。
「ごめーん、実は僕、男の娘なんだけど、これからも付き合ってくれる?」
唖然とする飯島の彼氏。10秒ほどの沈黙の末、
「なんだよ!早く言えよ!馬鹿にしやがって!この変態、死ねよカマ男!」
男は唾を撒き散らしながら叫ぶと僕を突き飛ばしてから展望台を去って行った。
よかった。ちゃんと強制終了できた。
……怖かった。すごい怖かった。泣くかと思った。正直殴られるかと思った。殴られなくてよかった。怒鳴られるって戦うってこんなに怖いんだ。知らなかった。
いつみはこんな恐ろしい思いを夏からいままでずっとしていたのだろうか。
僕が多機能トイレの中でさっき外したウイッグを再び装着して、ポケットのなかからスマホを取り出した。ラインのグループラインを見ると、岳は無事、矢萩の石を見つけたようだった。さすが、岳。体力と運動神経だけはあるもんな。
グループラインとは別に岳から僕宛に個別のメッセージがあった。
「真人、計画通り飯島の彼氏を連れ出してすげえな!ってか、お前の発想面白すぎだろ。お前やっぱ高校に入ってちょっと変になったんじゃね?あ、そうだ、今度でっかいホットケーキ食べに行こうぜ」
ラインの一文が、長い。苦笑いして、
「笑、はいよ」
とだけ書いて送信した。岳に男と接触して怖かったこと、人前で恥をかいたこと、傷つけられたことも伝えたかった。でもやめた。これから自分らしく生きていくことを考えたら今日のことなんてほんの些細なことに過ぎないと思ったからだ。僕はもっと強く生きていくんだからこれくらいのこと、なんてことはない。
これが、僕が女として生きた、いちばんはじめの日の出来事だ。
自分らしく正直に生きて行くって、しんどいことばっかりだからみんなどこか隠して生きている。
僕の正義が誰かの悪かもしれないし、僕の主張が誰かを深く傷つけるかもしれない。
でも僕はいつみに触れて、僕も中学生の頃のいつみみたいに思うままに生きてみようと思った。
誰かが止めても、誰かに嫌われても、誰かの嫌悪感を最高潮に高めたとしても僕は僕を生きてから死にたいと思った。
岳に振り向いてもらえなくても、世間からボコボコに叩かれても、長い髪をなびかせて、ヒールの音を響かせて、真っ赤なルージュを引いて誰よりも美しい笑顔で私は、私を生きて行きたい。美しく、しなやかに、洗練された知性を持って生きていくんだ。
「いつみも誘って3人で行こうね」
もう一度、自慢の細い指で液晶に触れ、スマホを東京第2電波塔に向けて紙飛行機ボタンをタップした。
(了)
「ルージュ、7センチヒール、僕のすべてのはじまり」(南 真人編)
「1メートル先も見えない俺を色鮮やかに照らす光」(三井岳編)
「「月が綺麗ですね」なんて今はまだ言わない」(武藤いつみ編)
真人のテーマ ハチ(=米津玄師)「砂の惑星」
「もう少しだけ友達でいようぜ今回は」
「トライアングル・ドライブ」の本編はこちらから
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