小説『かみさま』
あの人はまるでかみさまのような存在でしたと例えたなら、あなた方は揃いも揃って私のことを気味が悪いと嗤うでしょうか。
思えば恋というものは、その想いが自身の中で高まり、昂ぶり、到底私の手の届かないお方であると気づかされたとき、宗教のそれとよく似た気持ちに寄っていくものと私は思うのです。
高尚なこの想いを汚されたくない誰にも見せたくない、そのような感情をひとまとめにしたような心持ちになったことはありませんか。
わたしにとってのかみさまは、彼でした。
彼にとってのわたしは何だったのだろうかと時折考えます。
「おまえにはもう教えることは何もないよ。すっかり全部、生きるためのいろはを教えたつもりだから。聡明なおまえのことだから、これからは俺がいなくてもきっと大丈夫」
夢見に立ったあなたは口角を上げて柔らかに微笑むのです。
指の節がはっきりと出た右手のひらで私の頭部を優しく二度撫でると、世界のすべてが私の味方になったような錯覚が起こるのでした。
それが仮に夢の中であったとしても。
しかし悲しいことに、今しがた逢瀬を交わしたあなたとは天地が逆さになったとしてもこちら側では二度と会うことができないのです。
なぜなら昨年の関東地方の梅雨明け宣言が行われたあの日、あなたはご臨終を迎えたのですから。
夢から醒めた私は、東の空が白んでいく様を阿呆のようにぼんやりと眺めておりました。
盆は明け、あなたもこちらからあちらへお帰りになってしまいました。
いま、茄子の精霊魔にちいさなショウジョウバエが止まりました。棄てないといけないのはわかっているけれど、あといちにち、もういちにちと後ろ髪を引かれて、化粧台の上にそれらを鎮座したままにしてあるのです。
ふいにつうと一筋の涙が左目の端から流れ、続いて右目からも伝うので人差し指で双方の滴を拭いましたけれど、拭っても拭っても水滴ははらはらと落ちて止まないのでしばらく流れるままにして、小さなしゃっくりをしました。
ねえかみさま、しゃっくりが100回止まらなかったら死んでしまうというのは本当でしょうか。
しゃっくりを100回止めずにいたら果たしてあなたの元へと行けるのでしょうか。
かみさま。
このところ、しばらくご無沙汰していましたね。あちらの世界でもお変わりはありませんか。
しゃっくりは30秒に1回の間隔でひっと鳴ります。またあなたの国に近づけたでしょうか。
生前のあなたとのことを静かに回想してみましょうか。
「おまえはね、自分の話をしぎるんだよ。
気づいていないだろう?話すことの正体は快楽なんだよ。相手の話を聞く行為というものは場合によっては苦痛でしかない。
おまえは自分の話を聞かせることをサービスのひとつだと考えているかも知れないがそれはとんだ勘違いなんだよ。
会話というものは、ふたりの目の前に美味しそうなオムライスがあって、しかしスプーンはひとつしかない状態と考えていい。
おまえは先程からスプーンを独り占めして、共有するはずのオムライスを半分以上食べている。それは?」
ファミリーレストランの広くて無機質なテーブルに身を乗り出して私は答えました。
「それはとても強欲なことです」
「そうだ、強欲で相手を思う気持ちが欠損している」
それからというもの、人と話す時には常にその場に架空のオムライスを思い浮かべながらいま自身がどれくらいの量のオムライスを食べているのかを逐一目方で測るようになりました。
目には見えないオムライスを無我夢中で食べまくる人を見て、ああこの人は分かっていないのだ可哀想にと同情するようになりました。
かみさまのお陰様で少しばかり嫌な性格の人間になったかもしれません。
またある日。
「もしおまえに好きな人ができたら、表面上では相手には決してわからないように、その人がして欲しいことをできる限り叶えてやりなさい。そうすればどんな人間もおまえのことを後生大事にしたくなるものだから」
かみさまは車の助手席に私を乗せてアクアライン方面に走らせ、セブンスターを吹かせながら仰るのでした。
この言葉を痛いほど噛みしめるのはそれから16年も先のことになります。
私のして欲しいことを一から十まで叶えてくれた男の子を好きにならずにはいられませんでしたし、彼が私の元を去った時、それはそれは身体の半身を裂かれたような辛さを味わいました。
これこそ、かみさまの言う通りでした。
こうしてかみさまはわたしに自分の物差しで物事を測り考えてゆく大切さと、生きる上でのヒントの多くを教えてくださったのです。
あれほどに知的で、生命力に溢れるあなただったにも関わらず運命というものは残酷であっさりと、本当にあっさりとあなたはお亡くなりになりました。
火葬場で焼かれてお骨になったあなたのその白さがあまりにも美しく、悲しさよりも、骨ですら愛おしいと思える自身に震えたのでした。
食べてしまいたい。
葬儀屋の目を盗んで白のハンカチを小さな骨に被せて優しく握りそのままこっそり盗んで、化粧室の個室で舌の上にお骨を乗せ、いちにのさんで飲み込みました。
かみさまの味は想像通り香ばしかった。
私が骨の一部を盗んだことで成仏できずに一生外界にいてくれたらいい。
そんなことも妄想しましたが、私が飲んだのはたかだか肋骨のかけらでしたから、笑いながら「おまえに骨のかけらの少しくらいくれてやるよ」と言われるのが関の山でしょう。
「おまえのいいところは、おまえがばかなことを理解していることだよ。愚かだと知ることが聡明さへの近道だから」
かみさま、もうじきに御来光が差し込みます。
あなたの国に近づくために止めたくなかったしゃっくりがついぞ止んでしまったこのやるせない気持ちを少しは汲んでいただけますか。
かみさま。
極楽浄土は本日も快晴ですか、白檀の香りは穏やかに漂っていますか。
いまも変わらず愛おしい、唯一無二の私のかみさま。
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