普通の人ぶった文章、裸の文章、変人ぶった文章
「あなたの得意なことは何ですか?」って聞かれても「分かりません」って答えるけれど
「あなたがつい続けてしまうことは何ですか?」って聞かれたら、「文章を書くことです」って答える。
8歳からずっと、ほとんど毎日、日記的な文章を書いている。今も日記、note、Twitter、ブログ、たまにライティングなど様々な文章を書いている。
文章を書くことは苦痛じゃないけれど、文章にも種類がある。
私にとって、文章は3種類ある。
普通の人ぶったよそ行きの文章、裸の文章、わざと変人ぶった文章の3種類。
普通の人ぶったよそ行きの文章は、ライティングとブログ。最近はブログも「裸の文章」に近づいてきたけれど、基本的には人に読まれることを意識してる。
よそ行きの文章を書くのは、あんまり面白くない。理由は簡単。「書きたい衝動」だけでは通用しなくて、「他人の目」をきにするからだ。
誰かに読まれることが前提なので、役に立つ情報を入れようとしたり、読みやすいように画像を入れたり、太字にしたり、構成を直したりする。私は本来、書きたいことを書きたいだけ。「伝える」という意識は薄い。だから、あんまり面白くない。
裸の文章は、noteに書くエッセイ調のもの。今書いてるこの文章も「裸の文章」に分類される。ブログのオピニオン記事みたいなものも、裸の文章に近い。
裸の文章は、書くのが楽だ。構成や見られることなんて気にせずに、上からだ〜〜〜〜って書いていくだけ。頭の中を吐き出すだけ。排泄に近い。生理現象。なんの工夫もしていない。
裸の文章は、読み返した時に「ゴミだな」と思うことも多い。工夫してないし、排泄に近い自覚があるので、ゴミであるのも仕方ない。たまに感情が乗っていて、客観的で、「我ながら面白いな」と思う文章も書けるけどね、それは偶然。
裸の文章は「今」であって、「未来」が意識されていない。だから、ゴミになりやすい。
わざと変人ぶった文章は、詩みたいなもの。私が詩を書く時、素直な気持ちをあらわす時も多いけれど、わざとちょっと変人みたいなふりをして、自分にもよく分からない文章を書く。誰にも理解できないような文章を書く。誰にも理解できない文章は、つまり私にもよく分からない文章だ。
詩は、深いことを書いている・常人には理解できないことを書いているように見えるかもしれない。だけどそれは当たり前だ。本人にもよく分からないのだから。時には「意味のない文章」も書く。音と、単語のイメージに身を任せて、よく分からない文章を書く。
それはもはや私ではなく、覚醒に近い。私から切り離された人格の何かが書く。
詩みたいな文章は、読み返すと「意味不明だな」or「あ〜、なるほどなぁ」の二択の感想が出てくる。それはやっぱり、自分と切り離されたものだからだと思う。
意味不明:全くもって理解不能
なるほど:自分と切り離されたものへの共感
まとめ:文章には3つの種類がある。1つだけやり続けると疲れる。3つを組み合わせたり、配合を変えたり、ごちゃ混ぜにして自分なりのポジションを見つけたりしながら文章を書いていきたい。