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愛とコミュニケーション 蛇足

久しぶりに頭を鈍器で殴られた感覚。バッコーン★と。

私のnoteは蛇足だ。うえみずさんのnote原文全部読んで欲しいし、記事にあるPodcast全部聞いて欲しい。「愛とは、相手をコミュニケーション可能な他者とみなすことである」この言葉を聞いて、己の中に渦巻いたのは、その昔舐めた辛酸と、反省。それから自分の行き先についてだった。

うえみずさんのnoteの中で、私達は「絶望的なまでに断絶されている」と書かれていたし、ムロセンセのPodcastの中でも「コミュニケーションについての不可能性について実感を持っている」と仰っていて、そぉなんだよおおおおおおおってヘドバンをかます勢いで頷いてしまった。絶望的なまでの断絶。何度膝を折ったよ、わたし…。

でも、その経験があっての今だ。言葉は、いつも足りないのに余計なものばかり付随する。いつだって嘘が含まれてしまう。「光」を説明しようとしたら、光の波長の中の可視光線の中の、その一部の白色があたかも「光」だと誤認させてしまうような性質が、言葉にはあって、説明すればするほど、伝えたかったことから離れていってしまうような感覚になる。だから言葉は、情報伝達するのには不向きだと思うのに、今日も私はnoteを書いてPodcastで喋ってる。矛盾だらけだ。

話は飛ぶが、先日あるプロジェクトのコンセプトについてミーティングをやった。一緒にプロジェクトを進めている友達は、コミュニケーションにおいて「絶望的な断絶」の中にいる。一般的にI.Q値が70~130の間に95%の人間は収まると言われているが、彼女はそこからはみ出している。サイコパスのうえみずさんが「擬態は、サイコパスの生きる術」とnoteで書かれていたのと同じように、社会に溶け込むには擬態が必須なのだ。
ただ彼女は、同じHigh I.Qだからといって言いたいことが通じるわけではないと話していた。知能と知性は別だと。彼女は人とのコミュニケーションに絶望したし、一時期、人間との関わりを断って、山に籠もる一歩手前まで行ったが、彼女なりに世間と関わる道を模索しはじめている。

プロジェクトのコンセプトは「ひとこともしゃべらない物語」。喋ることで、大切なものが伝わらなくなることもある。往々にして。

私達はプロジェクトの中で、言葉ではない、コミュニケーションの可能性を模索しているんだと思う。言葉という情報を削ぎ落としてコミュニケーションを取ろうとしている。彼女なりの世界の愛し方だ。控えめでひたむきな。

その昔、彼女が「愛は知性の中に宿る」と話ししていた。あの頃なんとなくしか掴めなかった感覚が、私の中では「コミュニケーション可能な他者とみなす」という、より具体的な在り方とリンクした。私自身の「絶望的な断絶」の経験があって、彼女が創りたい世界を直感的に理解できたし、私なりに参加する事ができる…と前向きに考える。人間を、コミュニケーション可能な他者とみなして、手を動かし足掻くしかない。

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