「学問のすすめ」第十二編 感想
「学問のすすめ」初編より先はどこから読んでもOKとのことなので、十二編「見識の磨き方」を読んだ感想を書きます。
外へ伝えること
「Speech(スピーチ)=演説」と訳したのは福沢諭吉だそうだ。福沢は人前で話をして、自分の意見を人に伝えること、演説の重要さを説いている。この演説には個人の表現や議会での活動の意味も含んでいる。『学問のすすめ』初版発行は1872年(明治5年)で、国会開設を求める民撰議院設立建白書から自由民権運動がはじまったのが1874年(明治7年)のことだそう。本書は国民の意識を学問に向けることがメインに主張されているが、国会のことも意識はされているのだと思った。
さて、この「演説」は人と議論したり自分の考えを示すために必要なものとしている。学問は「実際に活かす」ことが欠かせないからだとしている。
学問とはただ本を読むことではない。このことはもう皆知っていることなので、今ここで語る必要はないだろう。学問で重要なことは、それを実際に活かすことである。活用できない学問は、無学と変わらない。
読書活動においても実践は欠かせない要素だとよく言われる。それは学問でも同じことで、知識を豊富に蓄えていても実践なくして意味はない。その実践として外への発信がひとつの手段として存在していて、演説すること、現代で考えるとネットを利用などして発信することもその要素に含まれるだろう。
実践ありきの概念として、ちょうど並行して読んでいた『構想力の方法論』も同様のことが書いてある。机上で考える想像を超えたものを生み出すためには、実践力や主観が欠かせないとしている。これは『学問のすすめ』の考えを応用したものなのかもしれない。
高いレベルでがんばる
読書したり勉強することは、えらいことではない。
手厳しい話だが、本書では以下のように述べている。
たとえば今、若い学生が酒や色事に溺れたりすることなく、まじめに勉強しているとしよう。そして父や目上の人に説教されることもなければ、この学生は、多少は誇らしく感じることだろう。けれどもしょせんは、他のだらしがない学生に比べればましというだけに過ぎない。まじめに勉強するのは、人ならば当たり前で、褒めるほどのものではない。
人間としての使命としては、もっと高いものでなければならない。
本を読んでると他の人に言う(※)と、「アラ偉いわね」とか言われるが、そんなに誇らしげにするほどのことではないというわけだ。
※「本を読んでいる」と外に伝えようとしている時点で、まだ浅いともいえる
その活動を前提、当然のものとして、より高いものを目指していく必要がある。こうしてnoteで読書活動をしているのも、褒められたいのではなく継続的に読書活動をしていきたいからである。
…………………うそ、スキは欲しいです。
まわりよりちょっぴり頑張っているからえらい、という考えから脱却するには、外のことを知るのがよさそうだ。
本書では国単位のことを考えているので他国のことや別の時代を比較せよとしている。
いまの私たちの活動で考えるならば、他のコミュニティのことを知ったり、それこそ読書やメディアで他の世界を知ることが良い刺激になるのではないだろうか。
変わり続けるというよりは、自分の現在地を客観的に知ることでそこに安寧を求め続けないことが必要…というのは耳が痛い話だ。
先の話題に帰ってくるが、外のことを知りつつ、同時に自分たちの考えを伝えることでコミュニケーションが可能となる。
そのため、やはり自分の現在地を知り、それを伝達する、知識を実際に活かすことができる準備をする必要はあるのだろう。
小手先の技術がうんぬんではなくて、どうやって自分の意見を表現できるかを考え続けたい。