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孤高になれたらまた君と 

木下花恋は好意をもつ前兆として生唾を飲み込む。

都会的なビルも雄大な自然もないどこにでもある田舎の高校に入って花恋が一番最初に恋した男は桐田修一だった。彼は花恋と同じクラスの級長で社交的で綺麗な顔をしており、軽音部でバンドをやっていた。絵に描いたようにモテる男子だった。

 恋に落ちたのは花恋が高一の時に彼が文化祭の曲決めの発表で一年生のバンドとしてステージに立った時だった。花恋は桐田のことを顔がいいクラスメイトとしてしか認識していなかった。だが、あの初夏の日、ステージに立って演奏前に桐田が微笑んだ瞬間、花恋は落ちたのだ。そして生唾を飲んだ。その時はスローモーションで全てが流れているような感覚を花恋は感じた。

花恋は男達から胸をじろじろ眺められることが多かった。彼女は一重の目に黒縁眼鏡をかけていて、忘れ鼻の横に黒子があり、たらこ唇だった。男達はその顔は空気のようにしか見ないくせに鼻の下を伸ばして花恋の胸を眺めるのだ。だから胸を小さく見せるブラを高校生からつけていた。それでも花恋の胸の大きさがどの程度なのかは水泳の授業でバレてしまう。ある日の高一の水泳の授業で、花恋が泳ぐためにプールに入ろうとすると、ゲヘゲヘと男子達から笑われていた。嫌な気分のままクロールを泳いだ。泳ぎ終わった時ちょうど左隣のレーンを挟んだ向こう側のレーンで桐田が同時に泳ぎ終わった。そして二人同時にプールから上がると、お互い目が一瞬合った。温かい何かを飲んだような気持ちに花恋はなった。一瞬が永遠に感じた。しかし、桐田はすっと興味なさそうに視線を逸らしてスタスタ歩いて行った。そして、花恋は桐田が一度も自分の胸に視線をやらなかったことに気づいた。花恋は桐田が性的にではなく、人間として自分と対峙してくれたのではないかと思った。


その夜、花恋は夢を見た。共に年老いた花恋と桐田で見つめあっている夢だった。夜らしく、二人がいる薄暗い日本家屋にはオレンジ色の灯りが点いていた。光と闇に包まれた桐田の顔は皺だらけなのに美しかった。幸せだった。目が覚めると朝5時で外は白夜のような薄暗さだった。花恋はパジャマのまま、サンダルを履いて外へ飛び出し、河原まで歩いた。山の向こうから大きな太陽が昇り、花恋はきっとあの夢は本当になると思った。何年かした後、それについて花恋は自分は若かったと思うようになる。

毎日桐田を見る度に染みるような幸せを感じていた。桐田が花恋の視線に気づいているのか気づいていないのか花恋には分からなかったが、目が合うことはほぼなかった。それでもよかった。ただ見ていられるだけで幸せだった。


高一の夏休みが明けて、花恋は気がついた。隣のクラスの吉川令矢のことを無意識に目で追っていると。

吉川令矢は髪の毛が茶色がかっていて、雑誌に載っているモテファッションをそのまま身につけているような服装をしていた。(花恋の通っていた高校は私服だった。)声が大きく、いつも男子のグループで、近くを通りかかった女子の見た目を批評していた。例えば、ある女子が安産体型だ、とか。性格はお世辞にも良いとは言えないだろう。

しかし、理由が分からないのに気がついたら花恋は吉川を目で追っていた。そして吉川のいるA組と花恋のいるB組で体育のバレーの授業があった。花恋が靴紐を結んで上半身を起こした時、吉川と目があった。その時だった。ごくん。とまた花恋は生唾を飲んだ。

これは恋とかではないのだ、と花恋は自分に言い聞かせた。恋というものはもっと清らかで桐田君への思いのようなものだ、何回も自分が暴走しないように心の中で唱えた。吉川の近くを歩く時、無意識に吉川と目を合わせてしまい、慌てて目を逸らすことを何度も何度も繰り返していた。吉川は面白そうにニヤニヤ笑っているようで、花恋が吉川のことを気になり始めてから1ヶ月後には「おい、また巨乳の木下が俺のこと見てるよ。」とでかい声で取り巻きに言うようになった。


気持ち悪い。吉川じゃなくて自分が。私はもっと純粋な恋がしたい。誰か一人を愛したい。それも正当な理由で。清潔な理由で。真実の愛が必ずある。普通はそうだ。普通にならなければ。花恋は自分に言い聞かせた。しかし、こうも思った。人を綺麗に好きになることができたとして、果たしてそれは返ってくるのだろうか?気持ち悪い胸と、お世辞にも美人と言えない顔。愛嬌もなく、ただ暗いだけの自分を誰が愛してくれるというのだ。自分はスタート地点にも立てていない。

眠る前、信号待ちの時、ふと頭によぎるこの考えに花恋は目の前が青くなる感覚を覚えた。

桐田のことを考えれば気が休まっていたが、いつの間にかそれすらも脆いものになった。

桐田が、いつも仲良く話している、隣のクラスの学校一の美少女の桜井さんからバレンタインにチョコを教室の前でもらっているのを見た。彼女はポニーテールにリボンをつけていて、よく似合っていた。桐田に相応しい少女であることを花恋は受け入れざるをえなかった。

高校の近くで変質者が出ているので注意するようにとの担任の話を聞き流しながら花恋は思った。

私は桐田君の何を知っていたというのだろうか。ただ笑顔を見ただけ。それ以上のことは知らない。彼が優しいのかも、彼が冷酷なのかも、彼が、何が好きで何が嫌いか、欠点はなんなのか、何一つ知らない。あの美少女の桜井さんはきっと桐田君のことをよく知っているのだろう。私の知らない桐田君を桜井さんはきっと知っている。私は本当に恋をしていたのだろうか。ただの性欲だったのではないだろうか。自分は本当に気持ち悪い女だ。


 映像授業の塾で数学の講義を受けながら、花恋の目から勝手に涙がぽろんと流れた。

 死にたかった。

「理由は大事です。理由を言われず彼女に去られた時、私はショックでした。いきなりラインブロック。だから、公式の理由、すなわち成り立ちはしっかり覚えましょうね。」

 画面越しに数学講師が何か喋っていた。

 理由、理由こそ私が求めているものだ。それまでは死ねない。私が生きる理由、私が存在する理由。私が恋した理由。誰か教えてください。どうか教えてください。

 思考が堂々巡りし、それ以外は頭に入ってこず、流れ続ける動画をただぼんやりと眺めていた。


 それから一週間後の月曜日、桜井さんが少年のようなショートカットになっていた。服装もグレーのニットにジーンズだった。なぜなのか?周りの女子達はひそひそと噂をしていた。

 桜井さんがどうなったのか花恋は気になったが、花恋には友達はおらず、学校の内情などほとんど知らないも同然だった。どうにかして彼女の話を聞きたいと花恋は思った。

 もしかして桐田君にフラれたのか?だとしたら自分には可能性が少しはあるのか。いや、桜井さんをフルくらいなのだったら、なおさら私など可能性はない。

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