二足の草鞋を履く
「二足の草鞋を履く」という言葉にどのような印象を持たれているでしょうか?
サラリーマンが副業を持つ、実業団スポーツ選手が会社の仕事をする、研究者やアーチストがアルバイトで生計を立てるなど様々な草鞋を頭に思い浮かべますよね。
私自身、映像制作会社の経営という本業のほかに、ラジオパーソナリティという顔を持っているわけです。早起きして8時までは喋り手、その後は社長さん。番組の話をもらったときから、この時間帯だからこそ可能な二足の草鞋だと思っていました。
そもそも、二足の草鞋を履くとは良いことなのでしょうか? それとも悪いことなのでしょうか?
大辞林で意味を調べると、残念な語源が出てきました。
同じ人が両立しないような二種の業を兼ねること。特に江戸時代、博打(ばくち)打ちが十手をあずかって捕吏となる類をいう。
そうか、そもそも両立しないことを12年も続けているのか!
経営者がタレントとして帯番組を担当することなど、会社のことを考えても、番組の内容を考えても、家族や健康のことを考えても、やってはいけないことだったのか!!
いや、本当にそうなのだろうか。
先日、経営者の合宿勉強会がありました。素晴らしい経営をしている立派な人格者の前で、小さな会社を四苦八苦して経営している私は、大きな身体を小さくして学んでいたのですが、グループセッションのときに「ありのままで」というキーワードが出てきました。
いくらでも都合の良い解釈のできる言葉ではありますが、人間の本質的な問題として、ありのままでいいのではないかと経営者同士で話し合ったのです。
人間として何がやりたいのか。人生をかけて何を残したいのか。
ありのままでない自分が無理をして、頑張っても、もがいても、なかなかいい結果は生まれません。ともに歩んでいる人との関係もぎくしゃくしてしまうものです。
私の人生も後半戦、父が亡くなった45歳はとうに過ぎてしまいました。
ありのままでいいのではないですか、と言ってもらえました。
先日、社員からも「子守さんのやりたいことをやってもらったらいいんです」と言ってもらい、涙が出ました。
経営者として、今しか撮れない映像やお話を記録し、あとになればなるほど価値の高まる作品を提供すること。それがアンテリジャンのメモリースタジオ。
パーソナリティとして、関西の朝にしあわせと情報をこれまでにない形や密度で、笑ったり泣いたりしながら届けること。それがMBSラジオ『子守康範 朝からてんコモリ!』。
状況の許す限り、ありのままの私がやりたいことをやっていていいのだと、確信した勉強会でした。
その成果はまだまだ出ていませんが、ありのままでない自分が出せる力より、ありのままの自分が出す力の方が100万倍強いはずです。
リスナーさんやお客様はもちろん、社員、スタッフ、家族にも支えられて、二足の草鞋を履いて歩き続けます。