普通
取引先の展示会へ来て、待ち合わせの時間までまだ少しあるので、時折番組でもお話ししている「普通」について書きます。普通といっても鉄道の話ではありません。
教室でも、会社でも、家庭でも、普通であることが求められます。先生や上司の言うことを聞いて、そこそこ勉強も仕事もできる。親が思い描いたように暮らしてくれる。世間的にはそれが普通ということでしょう。
秀才、天才と呼ばれるような能力、才能を持つ、ポジティブな意味の普通でない人も稀に存在します。
でも、一般に普通から外れた人は、可哀想な人、不良、出来損ない社員といったレッテルを貼られ、しんどい思いをして生きていくことが多いでしょう。だから、普通であるように努力しなさい。そんな世の中が続いていると思います。
ちょっとしたことでも、普通に合わせようとすると息苦しくなります。その人が持っている能力を発揮しきれなくなります。
最近、ADHDやLGBTのことを学んだり、病気のことを考えたり、海外での経験を思い出したりして、確信に変わったことがあります。それは、
普通の人なんてどこにもいない。
管理する側が、普通という枠を作った方が楽なだけです。
管理する側の都合で、普通でないというレッテルを貼られて生きるのはまっぴらです。
家族のこと、社員のこと、スタッフのこと、お客様のこと、取引先のこと、毎日いろんな人のことを考えますが、普通なんてないと確信してから、私はとても楽になりました。
自分が尊重してもらいたいと思うように、人を尊重する。当たり前のことなのに、普通という壁があってそれを邪魔しているように思います。
普通でない198cmの大男がいまさら気づくなんて遅いですが(・・;)
一方で、常識という枠組みは別の意味であると思うので、それについてはまた改めて。
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