私の苦しみはあなたには分からないし、あなたの苦しみを私は分かってあげられないけど。
「患者さんの苦しみを私は完全には分かってあげられない。そして、このことがどうしようもなく悲しい。」
最近、病院で実習をしながらそういうことを思っている。
以前から大学では、医療者-患者間コミュニケーションについての授業があり、「医療者は疾患の評価だけでなく、患者さんの苦しみに共感し、寄り添うことが重要である」と学んでいた。それに自分でもなんとなく、「治療するだけじゃなくて患者さんの気持ちに共感して寄り添って勇気づけられたらいいな」なんて思っていた。
実習が始まって、実際に患者さんに声をかけてみると「患者さんへの寄り添い」を体現するのは想像よりずっと難しかった。そもそも、実習を初めて気づいたのだが、私が知っている「患者さんへの寄り添い」を表現するツールは「それはお辛いですね。」という共感の言葉だけだった。でも、大病を患っている患者さんがしんどい経験を話している横で、その辛さを経験したことがない私が、何も分かっていない私が、「それはお辛いですね。」と言うのはなんだか失礼な気がしたのだ。
というわけで患者さんのことを何も知らない私が次にしたいと思ったことは「患者さんの話を聴くこと」だった。そうなると、患者さんに『何か話してください』というのも変だし、こっちから質問しなきゃいけない。でも、私が仮に患者さんの立場だったら、自分の周りのことを色々詮索されるのは嫌かなと思った。思い出したくない過去がある人もいるだろうし、自分がした悪意のない質問で不快な思いをさせることがとにかく怖かった。ただでさえ、病気でしんどい思いして入院している人に、自分のせいでこれ以上、不快な思いをさせることだけは絶対に避けたくて患者さんにアレコレ質問するのも憚られた。そうこうしていると、「患者さんの地雷を踏みぬいたらどうしよう」という気持ちが強くなっていって、実習が始まって数か月後には患者さんと話をするのがすっかり怖くなってしまった。私にとって患者さんとのコミュニケーションは「とにかく地雷を踏まないこと」が至上命題になった。
そんなある時、遠くに住んでいる医療系学生の友人と連絡する機会があった。ある勉強会で私が「患者さんの辛さを本当の意味で分かってあげられないから『患者の気持ちに寄り添え』って言われてもそれが分からない。患者さんとのコミュニケーションは共感することより患者さんの地雷を踏まないことが大切だと思う。」と言ったところ、そこに参加していた彼女から久しぶりにLINEの個チャで連絡がきた。彼女とはLINEで色々話して、その後、会って話もした。
特に彼女の言葉で印象的だったのは、次の二つ。
共感は、相手と同じ気持ちになることではなくて「あなたのその状況であればあなたがそれほどの苦しみを感じるのも推察できます。」ということだと思う。
「相手に伝わった、分かってもらえた」と思うことは心が救われるためにすごく大切なことだと思う。
彼女の言葉は、私の抱える「患者さんに寄り添う」という大きくて抽象的な目標を「患者さんに対して自分の心を向けて、患者さんの気持ちを推察していることを伝える」ということに、一段階具体化してくれた。
彼女の言葉だけで自分の抱えている患者さんとのコミュニケーションに関するもやもやが解消できたわけではないけれど、少なくとも自分が持っている「患者さんに寄り添いたいと思っている」ということを問診や診察する中でも相手に伝えられたらいいなと思うようになった。今すぐ、何か具体的な行動を変えることは今の私にはできないけど、やっぱり臆さず逃げず目の前の相手にまっすぐ向き合える医療者でありたいな、と思いながら、でもやっぱり完全に患者さんの思いを理解できないことは悲しいな、と思いながら、来週も実習頑張ってきます。