ヨルシカ「春泥棒」について考えてみたくなりました(第一弾)
こんばんは、十彩(といろ)です。
二本連続投稿の形で、ヨルシカの「春泥棒」という楽曲について、私が考えたことを共有させていただけたらと思います。
あくまで、「ここを掘り下げたら面白いだろうな~」と一個人が感じたところをまとめただけですので、アーティスト様の意図とは全く異なっている可能性が十二分にあります。こう捉えた人もいるんだなぁと思っていただけたら幸いです。
私が特に好きな歌詞は、以下の三行です。
愛を歌えば言葉足らず
踏む韻さえ億劫
花開いた今を言葉如きが語れるものか
第一弾である本記事では、上二行について考えていけたらなと思います。
「愛を歌えば言葉足らず」
この部分に関しては、比較的ストレートに表現されている文章だなぁと感じました。作品全体のテーマの一つは「愛」ではないかと考えていますが、その「愛」という文字を言い換えることなく含んでいるからです。愛する人がいる。その上で、「愛という事象が何であるかについては、いくら言葉を言い連ねても語り尽くすことはできない」と言いたいのではないか。すてき。
「愛を歌えば言葉足らず」については比較的読み取りやすい感じがしました。でも、続く「踏む韻さえ億劫」は、なんだかちょっと難しいような……?
「億劫」
「億劫」という言葉そのものは、作中何度も登場していて、重要そう。(数えてみたら4分半のなかで6回も登場していました。びっくり!)
まず、「億劫」ってなんだろう。意味はわかってるはずだけど、自分で言い換えるのって意外と難しい。明鏡国語辞典によると、「めんどうで気が進まないこと」だと言います。
「踏む韻さえ」
踏む韻”さえ”だから、「韻はそれほど大層なものではない」という意識が隠れていそう。
そして、「踏む韻」ってなんぞや?”韻を踏むのが億劫”なんじゃなくて、”踏んでいる韻”・”踏まれている韻が億劫”ということ?”自分が既に踏んだ韻”か、もしくは”誰かが既に踏んでいる韻”。それを自分がどう誰かに説明するか、どう解釈するかにめんどうくささを感じているのかしら。
「踏む韻さえ億劫」
以上の内容を仮定してみると、ここまでは以下のようにまとめられる。
「踏む韻さえ億劫」= 自分が踏んだ韻を他人に説明すること/誰かが踏んだ韻を解釈すること は大したことじゃないはずなのに、めんどうで気が進まない
ここまでを踏まえて、「なぜめんどうと感じているのか?」という点に、解釈の余地があるのではないかと思いました。
まとめ
本記事では、「愛を歌えば言葉足らず」・「踏む韻さえ億劫」という歌詞について、いち視聴者が考えたことを整理してみました。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!続いて第二弾を投稿させていただく予定ですので、よろしければ遊びにいらしてください!お待ちしています~
Special Thanks:tokyo_loop様
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