ヨルシカ「春泥棒」について考えてみたくなりました(第二弾)
こんばんは、十彩(といろ)です。
二本連続投稿の形で、ヨルシカの「春泥棒」という楽曲について、私が考えたことを共有させていただいています。
あくまで、「ここを掘り下げたら面白いだろうな~」と一個人が感じたところをまとめただけですので、アーティスト様の意図とは全く異なっている可能性が十二分にあります。こう捉えた人もいるんだなぁと思っていただけたら幸いです。
私が特に好きな歌詞は、以下の三行です。
愛を歌えば言葉足らず
踏む韻さえ億劫
花開いた今を言葉如きが語れるものか
第一弾では、このうち上の二行について取り上げました。第二弾である今回は、最後の一行に触れていきます。
「花開いた今」っていつ?
私が一番好きなのが、この最後のフレーズです。
「花開いた今」っていつのことを指すんだろう?この疑問に対しては、多くの視聴者さんのなかでも ある程度答えが一致しているのではないかなと思っています。私は「3月中旬から4月上旬」と考えるようになりました。決定的な語彙は一度も登場していないものの、「桜」を思わせる描写が作品全体にちりばめられているからです。以下にまとめてみました。
・「春泥棒」という楽曲タイトル
・木陰に座る 何か頬につく
・晴れり今、春吹雪
・花見の客も少なくなった
・春の匂いはもうやむ
・どれだけ春に会えるだろう
・また昨日と変わらず今日も咲く
・花に僕らもう息も忘れて瞬きさえ億劫
・花散らせ今吹くこの嵐はまさに春泥棒
・花の隙間に空、晴れりまだ、春吹雪
・花ももう終わる
・春がもう終わる
・花開いた今を言葉如きが語れるものか
・花見は僕らだけ
・散るなまだ、春吹雪
・あと花二つだけ
・もう花一つだけ
・ただ葉が残るだけ、はらり今、春仕舞い
もちろん例外の地域や品種もあると想像しますが、桜は「3月中旬から4月上旬」に立てられる開花予想が多いのではという感覚が個人的にはあります。また、「今」という単語がついているということは、「語り手は実際にこの時期を過ごしている最中」であることが考えられると思います。
春に対する意味付け
3月中旬から4月上旬の桜の咲く季節は、語り手にとって特別な存在でありそうです。それを強く表しているのは、「散るなまだ、春吹雪」だと感じました。「桜」に「散るな」と命令している。桜が散ったら、春じゃなくなってしまう。語り手は、夏が嫌いなわけじゃなくて、春に過ぎていってほしくないと思っているのではないでしょうか。
「如き」が伝えるニュアンス
引っかかるのは、「如き」という単語。この単語には蔑むようなニュアンスが含まれている気がしてならないでいます。そうすると、「言葉如き」という表現は「言葉は価値が低いものだ」と言っているようなものではないか?そうでありながら、MVに映る人物はずっと本を読んでいる。本は、言葉の集約物という側面が強い存在であるはず。本を常に手にしている人物が、言葉を嫌いな訳がない!それはきっと、その隣で寄り添っている人物も同じ。どちらが語り手であったとしても、言葉を無下に扱うとは考えづらい。このフレーズが言葉の持つ力をよく理解している人の発した言葉であるとすると、「言葉如き」はシンプルな蔑みではないように思えてきます。
一旦シンプルにしてみる
混乱するので、「如き」を除いたよりシンプルな形で一度考えてみたいと思います。すなわち、「花開いた今を言葉が語れるものか」。「語れるものか」は反語なので、「語れるわけがない」という意味を実際には伝達するはず。また、「語る」は「余すことなく表現する」とも言い換えられるような気がします。このように考えると、「言葉が3・4月を余すことなく表現できるわけがない」という意味が浮かび上ってきます。
改めて、全文で考える
これまでの想像を踏まえると、桜の咲く季節は語り手にとってこれ以上ないほど特別な存在である可能性がありそうです。だから、大好きな「言葉」をもってしても、その全てを表現することはできない。
なぜ「花開いた今」がそれほどまでに特別な存在なのか/なったのかという点に、考察の余地が残されているのだと思っています。
ご本人は全く意図していないという可能性は限りなく高いですが(笑)、この奥行きを創造するn-bunaさんのことも、それを声で届けるsuisさんのことも、本当に素敵だと思っています。
このながーーい文章にお付き合いくださり、本当にありがとうございました!一瞬でも「なんか刺激になったかも」と思っていただけたとしたら、この文章を公開した意味があったなぁと思えます。
Special Thanks:tokyo_loop様
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