NoということとYesということ
Noということに物凄い価値を感じた出来事があったので言葉にしてみたいと思う。
これまでの価値観はと言うと、
昔、イエスマンという映画を観たことがある。
その時感じたのは、「Yesと答えることで人生が良くなるんだ!」ってことと
「本当にそうなのかな?」という疑問だった。
単純な私には、Yes=Goodなこと そんな印象がついた。
そんな私の生育歴はというと母親のいうことをよく聞く子に育っていた。
当時、様々な理由で両親は大変だったらしい。猫の手も借りたい母をよく手伝っていて、後回しにしたりちょっと手を抜くと叱られるので、兎に角、ちょっと嫌だなあって思っていても叱られないようにしていた記憶がある。(あくまでも私の感じた世界の話。母は精一杯私を育ててくれていたのだと思う。)
そして、家事ができないと結婚できないから無理して家事を頑張ったこととか
責任のないことだが事を落ち着かせるために謝罪せざるを得ない経験から
私の中には、
「Noとは否定することよくないこと」「全てを受け入れなければならない」
こんな価値観が生まれていた。
先日、起きた事件
何度も連絡しているので今日中にそちらで確認してくださいとの連絡が入った。
私に一切関係なかった。
関連会社で手違いがあったのは明白だった。
胸とお腹の辺りを重い何かが渦巻く。
万が一、私に不備があったらいけないから早く対応しないとと不安になっていた。
様子の異変に気づきパートナーが話を聞いてくれる。
そうか、言いたいことはちゃんと言わないと。
そうだ、ちゃんと伝えよう。
今思えば、伝えたいこや相手に求めることをしっかり整理してから
電話すればよかったなんて思うけれど、うまくは伝えられなかったけれど、
Noと自分の意思を示せた。
紛れもない事実。
雲間から光が差し込み、氷を溶かしていくようだった。
Noということの価値
嫌なことにNoということは、自分が自分であることを認めることだった。
これまで視点を変えて受け入れる努力をしてきたからこそ、確信している。
相手に私がどんな人か伝えることもできる。
No=相手を否定ではない。
Noを伝えた後、どうするかは相手に選択権がある。
Noと伝えて、お互いのちょうど良い選択をすればいい。
Noがあるからこそ、Yesに本当の価値が生まれる。
Noを言えるようになれば、
なんとなくや消去法のYesではなくて、
楽しくて確信のYes!!!を選べる。
これって、自分の人生の舵を自分できれるってことだと思う。
これからは
Noが言えなかった時には、少しづつ蝕まれて、侵略されていた。
そんな感覚だった。(この感じ伝わるだろうか?)
私は、私の人生を生きるって決めた。
誰の人生でもなく、私の人生を。
そして、自分の人生を生きたいって思っている人のことも
応援していきたい。