自分が本当に距離を置きたかったもの

今でもあの4文字をネットで見かけるだけで感情が噴き出しそうになる。頭では分かっている「現実」と、ずっと見続けている「望郷」の念と、その2者が決してわかり合うこともなく胃の中を反芻していくのだ。

一文字打つだけで予測変換に飛び出すその4文字を、ふと目にすることがここまで苦しくなってしまった。「それ」を惜しむ声を見つけると、抑え込んでいた感情がわき上がり無性に苦しくなっていく。
では見なければ良い、それはその通りである。

「それ」と距離が置ければどれだけよかったことか。幸いなことに自分はその地域に住んでいない、見ることは決して義務ではない。
だから、可能であるはず、そのはずなのに。

もう何を見ても自分の思考には「それ」が過ってしまうようになった。
近隣路線は勿論のこと、山間の第三セクターであっても、日本海沿いの路線であっても、ふと「それ」が頭を過るようになっていた。

では山を越え海を渡れば良かったか?そんなことはない。物理的な距離は自分の心に距離を与えてくれなかった。
時が経てば良かったか?そんなこともない。時間的な距離も自分の心に距離を与えてくれなかった。

ではジャンルごと変えれば良かったか?政治や社会の本を読んでも思い出すのは「それ」のことで、歴史表象にも「それ」のトリガーがついて回る。
考えずにいられるのはアニメを鑑賞している時間だけだ。

どうして「それ」をこんなにも考え込んでいるのか、自分にも分からない。かといって分かりたいわけでもない。
こんなに苦しいのに、決して忘れたくない自分がいることこそが、今最も解明したいことなのかもしれない。

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