犬 中勘助著 (19)
※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。
前回のお話
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19
彼女は孔からとびこんだ。いない! 僧犬もいない。変な匂がする。妙な足あとがある。犬の匂ではないし
「あ、豹だ」
彼女は気ちがいのようにかけだした。豹は夜など時折このへんまでも忍んでくることがある。彼女はその匂を知っていた。彼女は地べたに鼻をつけて出来るだけの速さで追跡した。まだ間もないようだ。はっきり残っている。 彼女は匂をたどって終に町からかなりはなれた大きな森へはいっていった。なんにも怖くなかった。絶望的な怒が影を見せない敵にむかって燃えあがった。森へ入ってからは急に追跡が困難になった。そこにはいろんな鳥や獣の匂がしてごちゃごちゃに互に他を消しあっている。とはいえ彼女は縦横無尽にかけまわってどうでも敵を見つけようとした。そして奥へ奥へと進むうちにぽかりと小さな沼のふちへ出た。大木がないかわりに灌木と雑草がもうもうと密生している。彼女はそこまできてはたと当惑した。象の群が水をのみにきたのであろう、そこらじゅうめちゃめちゃに踏みつけられてなにがなんだか訳がわからない。彼女は藪のなかを押しわけ、くぐりぬけ、難儀をして嗅ぎまわったが豹の匂は絶えてしまった。しかたなくひきかえして別の方向へ捜しはじめた。まわりまわって歩くうちまた沼のところへ戻ってきた。で、 まだひきかえした。歩一歩と夜が近づいてくる。あせりにあせって別のほうへ別のほうへと捜すうちにまたもとの処へ出てしまった。もうどうすることもできない。確に敵はここへきたには相違ないがそれから先がわからない。 足あともない。匂もない。到るところ象にへし折られ、踏み躪られた枝や葉を見るばかりである。彼女は絶望した。精も根もつきてしまった。その時その凄しい怒が忽然として深い深い悲と思幕の情にかわった。彼女は仰向いてあわれな長吠えをして子供を呼んだ。あの無心なものが豹のあとについてちょこちょこと歩いてでもゆくかのように。彼女はくりかえしくりかえし呼んだ。そして今一度呼ぼうとした時にがさがさという音をきいた。彼女は赫として身がまえした。そこへ僧犬が現れた。彼は帰るとすぐ事変のあったことを感づいてあとを追ってきたのである。彼女は手短かに一伍一什を話した。
「あきらめるよりしようがない」
彼も流石に悄然としていった。そこに感情の共鳴があった。
「わしが早う帰らなんだのがわるかった」
彼女はもうそんなことを咎めだてする気もなかった。彼らはだらりと尻尾を 垂れて申し合わせたように黙って住みかへ帰った。
夜である。彼女は座りなれた穴の隅にすわって、そこにまざまざと残っている子供の匂を嗅いで悲しい悲しい声をあげた。彼女はまた豹の匂を嗅いであらたに母獣の怒を燃やした。
「ああ、あの子たちはどんなにか啼いて私を呼んでいたのだろう。それをあ の口の裂けた豹めがききつけてそっと忍んできたにちがいない。あの子たちはそれを私だと思ってよちよちと慕いよったのだろう。それをまあよくもよくもむごたらしく一つ一つくい殺して……かにしておくれよ。かにしておくれよ。私がわるかったのだから。私さえいればこんなことにはならなかったのに。おまえたちがひもじかろうと思ったばっかりに……ああ、私はどうしたらいいだろう。出る時にあんなに慕って啼いたものを……のませてやりたい。のませてやりたい。このまあ乳をのませたらどんなにかよろこぶだろう」
彼女の乳房ははちきれそうになってうずいた。彼女は彼らの頭や前足がそ
こに触れて、それが小さな口につるりと吸い込まれる気持を思い出す。そうしてこらえきれぬ物足りなさ、心さみしさを覚える。
きらぬだにいねがての犬の夜があけて朝の光が堆石のすきまからさしこんできた。とはいえそれは昨日とは似てもつかぬ日であった。
極度の緊張ののちの弛緩、麻痺、放心の幾日がすぎた。僧犬は又もや彼女をいどみはじめた。すてばちになった彼女は格別の嫌悪も反抗も示さず唯々 諾々としていうなり次第になった。僧犬はそれを、最近の悲からいよいよ彼女が完全に夫婦の情愛を解するようになったのだと思って頗る上機嫌でああった。
「どうぢゃ、ええもんぢゃろう。わしがいわんことではない」
そういう考えがますます彼の情欲を刺戟した。その上彼はこの機をはずさず彼女が今こそ賞美したらしい性交の味によつて己れを彼女に忘れられぬものにしようと思った。それでさかんに交尾した。併し誤解から起ったこの状態は勿論余り永くは続かなかった。彼は彼女の従順の意味を感づいた。そして反動的に非常な不満を感じた。彼は温かい屍骸を抱いてるようなものであった。それが真実屍骸であったら、それが性欲をみたす器となる限り相当の満足を得たであろうけれど、生憎とそれは元来生きた女であった。そして美しい男に対しては確かに生きて発剌とした、なまなましい女であったに相違ない。そう思えば彼は狂的な抱擁の最中に於てさえうち消しがたい無味、不満を覚えた。それは彼の情欲が熾烈である丈大きかった。彼はさんざつがった女にむかっていった。 後で些の感興も、感興の過ぎたらしいようすもなく、気のない顔をしてる彼女にむかっていった。
「水くさいではないかえ。わしがこれほどに思うているにそなたはすこしも 報いてはくれぬ。それではあんまり情がうすいというものぢゃぞえ」
彼女はなんともいうことができなかった。実際そのとおりであった。それはまったくしょうことなしのおつきあいにすぎなかった。性的な反応が起るのさえ不思議なくらいであった。
「ちっとはわしが身にもなってくりやれ。そなたさえその気になってくれる ならこの上ないたのしみがでけるのぢゃに。そなたがつれないばっかしにわしがいつも味ない思いをする。そなたはよいかしらぬがそれではわしがたまらぬ。先の短い命をこのようにして暮すのが思うてもつらい。それはわしもよう得心している。そなたがわしを嫌うのも尤ぢゃ。わしは醜い。それにこのとおり年よってもいる。が、の、ここをようききわけてくりやれ。いやなものを 無理難題をかけると思うかしらぬがの、それが恋ぢゃ。どうでも思いきれぬのぢゃ。わしは気のちがうほどに思うている。可愛い、いとしいと思わぬ時はないのぢゃ。今までは黙っていたが、わしはそなたをひと目見た時から恋い慕うていたのぢゃ。わしは迷うている。思いこがれている。の、すこしは察してくれよ。その思をはらすにはそなたを抱くよりほかはないのぢゃ。そなたがせめてわしが思の半分も汲んでくれうならわしはもういうことはないのぢゃ。これ、わしはつらいのぢゃ。ふるうほどせつないのぢゃ。 の、そなたも木や石ではないぢゃあろ。察してくりやれ。夫婦らしうしてくりやれ。 慈悲ぢゃぞえ。の、これ、あわれと思うてくれ」
彼は手を合わせぬばかりにしてかきくどいた。彼女はうなだれて黙ってい た。彼女にはよくわかった。それほどまでに思ってくれるのをありがたいとも思った。そんな苦しみをさせるのはすまないとも思った。出来るならどんなにでもしたかった。が、どうにもしようがなかった。それは彼女の力に及ばぬことだった。彼女は彼をさだめられた夫として承認した。人身御供にあがった気持で泣く泣く身をまかせた。それがせい一杯のところだった。それ以上は彼女にとっていわば背理であった。彼女の肉体を構成する細胞の一つ一つが絶対にそれを拒絶した。それは彼女がまだその時期に達しない処女であって、それを彼に弄ばれるのと同然であった。彼女はそれをしも忍んだ。それ以上なにが望まれようか。
「ごめんなさい」
彼女はいった。それは真底からの詫であるとともに断乎たる拒絶でもあっ た。僧犬は溜息をついた。彼は数多い呪法のなかに一途な女の恋を忘れさせる法のないのをくやんだ。しかも彼はなお懲りずまに執念くかきくどいて夜となく昼となく彼女を悩ました。
「わしはこんな身体ぢゃ。さきはもう見えている。わしはこのままでは死んでも死にきれぬ」
そんなこともいった。実際彼の身体はひどく弱ってきた。全身の悪瘡はますます烈しくなった。彼は間がなすきがなそれを爪と歯で掻きむしっている。 そのたんびにばらばらと毛がぬけて赤肌から血膿が流れる。爛れ目のうえに眉毛も髭もなくなり、肉ばかりの尻尾がちょろりと垂れて、見るもいやらしい姿になった。彼は痒さに責められて疲れきった時のほかはおちおちと眠ることもできない。気力も体力も衰えはてて今はただ猛烈な獣欲ばかりが命をつないでいる。こんな有様で思うように彼女と楽しむこともできずに死んではまったく死にきれないのであろう。とはいえ彼女のすてばちな無関心、冷淡な従順は彼の執拗な強要のために再び積極的な嫌悪となった。それは本然の傾向に戻ったものをわる強いされる時に現われる抑えがたい自然の反抗であつた。彼女はうるさくかきくどかれるほど生憎に「あの人」が恋しくなった。 そうして始終「あの人」の夢を見た。それがいよいよ彼女を堪えがたくした。 彼女はまたもや逃走を考えはじめた。
「今度こそ命がけだ。が、もうしかたがない。どうでもなるがいい。もう一 度逃げてみよう。どうしても逃げおおす。そうしてあの人のところへ行く。 ああ、私はガーズニーへ行こう。ガーズニーへ行こう」
続きのお話(※次回は最終回です)
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