犬 中勘助著 (7)
※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。
前回のお話
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7
翌日彼女は一椀の供養の食物をもって邪教徒の天幕よりも怖い聖者の草庵へいった。聖者は己に苦行をおえて木の幹に寄りかかっていた。そして彼女を立ち迎えて草庵のうちへ導き入れた。彼は彼女の捧げた食物を木皿にうけて藁床のうえに置き、水甕のふちを両手でもって重たそうに神壇の前へ運んだ。それには七分めほど水がはいって、一本の聖樹の枝が倒にひたしてある。彼女は滅入りそうな気持で目をふせていた。
「これは祈禱によって功徳をつけられた水ぢゃ。これを神像にそそいで湿婆の怒を鎮め、またそちの身体にふりかけて穢れをすすぐのぢゃ。そうして、罪をゆるしてくだされ、身を浄めてくだされ、福徳を授けてくだされ、とお願するのぢゃ、そちは身に着けたものはみな脱いでしまわねばならぬ。そうしてこの燈明の消えるまで祈願をこめるのぢゃ」
彼女は石像のようになって目をみはった。
「燈明が消えたら帰ってもええ。それまでわしは外に出て居ろう」
聖者は外から扉をとじて歩み去った。彼女は耳をすまして足音の遠ざかるのを聞いた。そうしてやや暫くためらっていたがようやく心をきめて、身に纏った布片をほどこうとして無意識に神像を見あげた。それが生きて見ようとでもするかのように。彼女はぐるぐるとほぐしはじめた。立派に発達して肉体が次第次第にあらわれる。彼女は着物をかた寄せておどおどしながら聖樹の枝をとって浄水を神像にふりかけた。そして平伏して祈願したのち起きあがって今度は自分の身体にふりかける。幾度も幾度もくりかえしているうちにやっと気が落ちついてきた。彼女はもはや猿神に祈ったようにこの子の親に今一度あわしてとはいわなかった。教えられたとおり、罪をゆるして、身を浄めて、と祈った。それは真実一生懸命であった。とはいえ恋人を棄てよう、忘れよう、などとは露ほども思いはしなかった。
皿の油はあまりながくはもたなかった。けれどもそれがどんなにながく思われたか。燈明が今にも消えそうになるのを見て彼女は手早く着物をきた。そして湿婆のまえに最後の礼拝をしてほっとして草庵を出た。そうしてそのまま帰ってよいかどうかを疑って見まわしていたときに聖者はどこにいたのかじきに姿を現した。
聖者は娘の跪拝をうけたのち草庵に入った。そこには燃えた油の匂と女の匂がこもっていた。神像が浄水にうるおって、そのまえにひとすじの髪の毛が落ちていた。彼はやや久しくなにか思い耽ったのち供養の食物をとってぺちゃぺちゃとうまそうに食べた。
その次の日も聖者はおなじように娘を残して草庵を出た。彼は程近い流のところへきた。そこは月が水を照らしてせいせいと明るかった。そこでいつもの浅瀬に降り立って水浴をした。まだ癒えきらぬ掻き疵がひりひりと痛んだ。それから彼は岸にあがって黙想しようとするように足を組んで瞑目していたが、じきに立ちあがってそこいらを歩きまわった。彼は終日の苦行に疲れかつ飢えていた。で、また草のうえにべたりと腰をおろして息をつきながらなにかの考えに囚われた。と思うとまたその辺を落ちつきなくふらふらと歩きだした。彼は俛首れながら夢遊病者のように逍った。夜の鳥が頭上の枝からばさばさと飛び立った。彼ははっと我にかえった。そしていつのまにか草庵のある空地にきているのに気がついた。彼は足どめにかかったように立ち竦んで思案しはじめたが首をふってもと来た流のほうへ歩きだした。と、またひっかえした。そして二足三足歩いたとおもうとくるりと身をめぐらした。で、そのまま地から生えたように立って苦しげに溜息をついた。彼は脇腹の疵を爪で掻きさばいた。髪の毛をひき毟った。が、終に萬力で捩じられるようにじりじりと向きなおった。そうして餌をねらう獣の形に足音をぬすんで草庵のほうへ忍びよった。彼は背面の隅の地面に近いところに明りの漏れる小孔を見つけて、そこへいやな恰好に四つ這いになって腹をひどく波たせながら覘きはじめた。
続きのお話
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