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猫を狩る 連作短編集(サンプル)
新刊です!
猫をめぐるママ友トラブルと、不倫ブログウオッチャーのオフ会から、平穏な日常に亀裂が入っていく。
それぞれ立場の違う女性たちが猫を胸に抱きながら見つけた愛と不倫と家族の在り方を描いた全六作の連作短編集です。
【収録作品とあらすじ】
猫を狩る
猫が原因でママ友から孤立してしまった郁子は、ネット掲示板で繰り広げられる不倫ブログウォッチに嵌ってしまい…。
予告
高校生の娘と、年下の再婚相手と暮らす早苗は、不倫ブログウォッチャーの主婦を憎んでいる。ある日早苗は、娘の携帯の不穏なメッセージのやり取りを見てしまい…。
輝板(タペタム)
小学校1年生の娘と、幼稚園児の息子を持つ由香里は、二人の子供の育児に追われている。飼い猫のことで同じマンションに住む郁子と仲たがいしてしまったことを後悔してはいるものの、郁子は意に介さず、新しい友達を作って楽しんでいる様子で…。
飼われる
派遣OLの美里は、元の会社の近くの定食屋で知り合った涼太と付き合っていたが、美里の行動を制限したり、あとを尾けたりするようになったので、派遣先を替えて引っ越す。
新しい派遣先では、谷村の足を引っ張らないように懸命に働くが、ある日会社の外で涼太が待ち伏せしていて…。
迷子の仔猫たち
家に居場所がない葉月は、飼い猫のマオになった悪夢に苦しめられる。深夜のファーストフード店で知り合った杏と友達になるのだが…。
眠りから覚めると世界は
郁子の家に思いがけない人物がやってきて……。
【本文試し読み】
猫を狩る
一
「ねえママ、ねねちゃんはどうして手術を受けなきゃならないの?」
郁子(いくこ)は花梨(かりん)の小さな手を握りなおし、小さくため息をついた。花梨がねねの手術のことを聞くのは、今日だけでももう五回目になる。
「だって、ねねちゃんがたくさん子猫を生んじゃったら飼えないでしょ。放っておくと猫はどんどん赤ちゃんを産むんだよ」
「子猫可愛いもん。また欲しい人にあげればいいよ」
「もう欲しい人なんかいないよ。うちのご近所はみんな猫嫌いだから」
これ以上猫を増やしたら、口を利いてもらえないどころか、脅迫状が届くのではないかと思う。
「ねねちゃんが赤ちゃんを産めなくなっちゃうなんて、かわいそうだよ。ね、お願い。ねねちゃんの手術、やめにしてあげて」
何度説明しても花梨が言うことは同じだ。餌代がかかって大変だというと、花梨がお年玉貯金から払うと言い、うちが猫だらけになっちゃうよ、というと花梨が全部の子猫を花梨の部屋で飼うと言う。困ったことに花梨の足では学校まで四十分もかかかるのだ。学校にたどり着く前にこれを何回繰り返すのかと思うと、うんざりしてしまう。
親の欲目を差し引いても、花梨は本当に可愛い。小作りな顔にぱっちりとした涼しげな目元が印象的で、短い髪と男の子のような格好がかえってその可愛らしさを引き立てている。
ねねちゃんには、ねねちゃんが大好きなキャットフードとおやつをたくさん買っておいてあげるからねと、なんとか花梨を丸め込んで、校門のところで別れた。帰り道はひとりなので、二十五分ほどで歩けるとはいえ、真夏と変わらない暑さの中を一時間歩くのはつらい。学校帰りのお迎えも合わせると郁子は、毎日二時間を娘の花梨の送り迎えに費やしていることになる。
家に着いて、冷たい水をコップに注いで一気に飲むと、郁子はパソコンのスイッチを入れた。朝の日課の早紀ちゃんブログのチェックだ。早紀は、郁子よりふたつ年下の三十二歳の人妻で、花梨と同い歳の小学校一年生の男の子の母親で、子どもが学校に行っている間はファミレスでバイトをしている。そのファミレスの店長である年下の男とつき合っていて、不倫の内容を赤裸々にブログに書き連ねているのだ。
<昨日はなおくんがお休みの日だったので、ドライブに行ったの。楽しかったぁ。なおくんったら、デートしてても入った店の従業員の態度とかメニューがやたら気になるみたいで、なんだか落ち着かないなあ。でもずっと行ってみたかったラブホに行けて満足。平日昼間のフリータイムを利用して四時間、ふたりともへとへとになるまでエッチしちゃいました。疲れたので夕食はスーパーのお惣菜。もちろん休みではなくバイトに行っていることになってまーす>
ああ、またくだらないものを見てしまった、と思って力が抜ける。早紀は友達でも知り合いでもないのに。ブログというものがある限り、匿名の他人の私生活はいくらでも覗き見できる。子どものいじめ、ママ友同士のいさかい、猫の飼い方など、一時期はいろいろなブログをはしごして見ていたが、最近は面倒になってチェックするブログの数をかなり減らした。不倫ブログにもいい加減飽きてきたけど、惰性でつい見てしまうのだ。それから大手掲示板サイトの不倫ブログウォッチのスレッドを見る。新しい書き込みがかなり増えている。
<うわー、今日の早紀たんサカリついてるね。だんなカワイソすぎる>
<体位まで詳しく書いてなくて残念>
<なおくん、気持ち悪すぎ。ねーねー、どこのファミレスか特定できた人いる?>
<四時間もやりっぱなしじゃ、一通り全部と思われる。国道沿いで病院の近くでしょ。もっと詳しい情報希望>
<早紀たんのダンナって何してんの?>
<ファミレスで働いてないことだけは確か>
郁子が不倫ブログをウォッチするネット掲示板を覗き始めたのは、花梨が小学校に上がる少し前のことだった。近所の主婦との人間関係に悩んでいたので、同じような悩みを持っている人はいないかと大手の匿名掲示板サイトを見始めたのがきっかけだった。あちこちの板を見ているうちになんとなく辿りついて、以来ずっと見続けている。
仕組みは簡単だ。誰かが鼻持ちならないと思うような不倫ブログをどこからか探してきてURLを晒す。それをネタに叩いて盛り上がるというだけのことだ。世の中には夫や子どものことを考えずに、男を作って遊びまわる人妻が少なからず存在するのだ。そしてそれをブログで公開して楽しんでいる。許せないというほど頭にくるわけではないが、やはり世間から何らかの制裁を受けてしかるべきだと思う。
最初のうちは見ているだけだったが、やはり腹が立つので書き込みをするようになった。早紀にしろ、他の不倫妻にしろ、そういうブログを書き綴って公開しているというだけで、世の中の主婦すべてが変な目で見られてしまうように思えてくる。
コメントを書き込んだあとに、それに同調する書き込みが続くと気分がいい。顔も知らない他人とはいえ、賛同してもらうというのはいいものだ。近所の主婦との人間関係で失敗をして、気軽にくだらない話をできる人が周りにいなかったので、掲示板に書き込みをすることだけが楽しみになった。ブログの持ち主に対してあからさまな中傷を書けば書くほど、同意するコメントが増え、ネットの向こうに、友達がたくさんいるような錯覚を起こしそうになる。相手の顔が見えなくても、井戸端会議で誰かの悪口を言って盛り上がるのと同じだった。
新しい書き込みのひとつにリンクが貼り付けられていた。掲示板で派手に叩くと早紀にバレる可能性があるので、こちらの個人ブログでやりましょうよ、というコメントが添えられている。こういうアドレスをうかつにクリックしてしまうと、パソコンがウイルスに感染したり、怪しげなサイトに誘導されることも多いけど、その書き込みが、この掲示板でずっと親しくコメントをやりとりしている女性の癖のある文章だったのと、大手のポータルサイト上のブログのアドレスだったので、クリックしてみることにした。新しい画面が開き、「ゆりママ日記」というタイトルとともに、ピンクが基調の可愛らしいブログが表示される。夕食のおかずや、手作りの手提げバッグの記事が掲載された、いかにも主婦っぽいブログだった。そういうのが好きな人が不倫ブログを憎む気持ちはよくわかる。ゆりママとはおそらく掲示板で毎日のように言葉を交わしているのだろうし、こういう人となら、仲良くできそうな気がしたけど、不倫ブログウォッチがきっかけで友達づくりなんて、やはり後ろめたさを感じてしまう。郁子はゆりママブログにはコメントを残さずに、ブラウザを閉じた。
二
ねねが谷村家にやってきたのは、花梨が幼稚園の年中の頃のことだった。ずっと猫を飼いたいと思っていたけれど、郁子の実家のマンションでも、独身のときに住んでいたアパートでも、ペットを飼うことは禁止されていた。たとえペット可の物件に住んでいたとしても、仕事に出ている間にずっと家に閉じ込めておくのは忍びなく、満足に世話もしてやれないと思ってあきらめていた。
会社の同僚だった聡(さとし)と結婚し、程なく妊娠したので、ペットを飼うことは見合わせた。猫は妊婦とも赤子ともあまり相性が良さそうではなかった。聡はペットを飼うことにはそれほど興味を持っていなかったけれど、幸いなことに動物に対するアレルギーは持っていないようだった。ペット以前に郁子にも、生まれてくる赤ん坊にもたいした関心はなく、何事も郁子の好きなようにするようにと、穏やかに笑う以外のことはしなかった。
やっと猫を飼う話が具体化したのは花梨が五歳になってすぐのことだった。花梨が幼稚園に入園し、ふたり目の子どもを作らないことを決めた。子どもをふたり育てる余裕がないわけではないけど、納得のいく生活レベルを維持できる自信がなかったので、ひとりっ子の花梨が淋しくないように、猫を飼うことを決めたのだ。
ねねは、市の広報を見て、隣の駅の近くの建売住宅に住む吉沢さんという人からもらった。純血種の猫が欲しいなどとは思わなかったので、雑種のメスの雉猫をもらってきた。オスのほうが何かと面倒がないように思えたけれど、オス猫はすでにもらわれてしまっていて、メスしか残っていなかった。それがねねだ。メスには不妊手術をしてやらなければならないのか、吉沢さんに聞くと、完全室内飼いで、外に出さなければ大丈夫と言われたので、それを信じて手術はしなかった。
花梨はねねをものすごく可愛がっていた。最初のうちは扱い方がわからなくて尻尾を引っ張ったり、ぬいぐるみのようにどこへ行くにも抱っこして、ねねに嫌がられていたが、扱い方を飲み込むと、すぐに仲良しになった。
ねねを動物病院に連れて行かなければならない時間になったので、ひんやりとした玄関のタイルの上で丸くなっていたねねをケージに入れた。ねねは不安そうににゃあと鳴いて、大きな緑色の目で郁子を注視した。
かかりつけの動物病院までは車で十分ほどの道のりだ。花梨も車で送り迎えができるのなら楽なのにと、いつも思う。花梨を学区外の小学校になんとか入学させてもらうための条件は、歩いて通学させることと、一年生の間は親が送り迎えをすることだった。どうしても学区内の学校には入れたくなかったので、条件を呑んだ。一日にあと二時間自由な時間があったら、もっといろいろなことができるのにと、時間が有効に使えないのをつい花梨のせいにしてしまう。本当は郁子は暇なのだ。でも送り迎えのことを考えると時間が気になって集中して何かをやろうという気にはどうしてもなれない。花梨が小学校に入学したらパートに出ようと思っていた。でも、朝学校に行って帰ってくるともう十時少し前になっている。一時半ぐらいにはまた家を出なければならない。できることといえばせいぜいファミリーレストランのランチタイムのウェイトレスぐらいだろうか。
学校を出てからずっと事務の仕事をしていたので、接客業というものに郁子は慣れていなかった。それに、一回りも年下の店長に使われるのかと思うとなんとなく尻込みしてしまう。夫の聡はとっくの昔に郁子への興味を失くしているので、働こうが習いごとをしようが、好きにすればいいという。ただ、そう口にするだけで、具体的に郁子の手助けをすることはない。郁子が同じマンションに住む幼稚園ママから孤立してしまったときも、仕事が忙しいので、近所付き合いのことにまで構っていられないと、面倒臭そうに言われた。
もしもあのときにねねを手放していたら、こんなことにはならなかったのだろうかとも思う。でも、郁子にも花梨にも懐いているねねを誰かにあげることなんてできないし、ひとたび、郁子があの人たちの敵になってしまったら、ねねがこのマンションにいようといまいと、関係は元に戻らない。憎むべき誰かは、誰にでも必要で、このマンションではたまたま郁子がその役目をおおせつかってしまったにすぎない。郁子たちが住んでいるのは分譲マンションなので、新しい人が入居してくることもあまりないだろうし、このままみんなの仮想敵を演じ続けるしかないのだ。郁子は駐車場に下りて、ケージをバックシートに乗せると、車を発進させた。
ねねが子猫のときからずっと診てもらっている若い女性の獣医は、ねねを一通り診察すると、じゃあ明日の今ぐらいの時間に迎えに来てくださいね、と言ってにっこりと笑った。二歳にもなって今更不妊手術をすることに対して非難めいたことを言われるのではないかとずっと気にしていたけれど、そのことについては何も言われなかった。
帰りにスーパーに寄ると、同じマンションの隣の棟に住んでいる由香里が、娘の桃実を乗せたカートを押しているのが見えた。郁子は顔を合わせないように棚の陰に隠れた。そうしてしまってから、なぜ自分が逃げたり隠れたりしなければならないのかと思って、自分の卑屈さに嫌気がさした。
由香里の娘である桃実は花梨と同い年で、花梨とは幼稚園に入園した頃からずっと仲良くしていた。下の子が小さいので、桃実を預かったことも何度かある。それなのに、ねねのことで事件があってから、口も利いてくれなくなった。避けたつもりだったのに、お菓子売り場に入ったときにばったりと由香里と鉢合わせしてしまった。一瞬目が合うと、由香里は視線をそらせ、郁子の脇をすり抜けていった。
三
家に帰ってからもう一度、早紀のブログをチェックした。更新はされていなかった。不倫ブログウォッチの掲示板にアクセスしてみると、また書き込みが増えている。
<ほんと、早紀たん懲りないよね。ここのみんなで狩っちゃわない? なんか見てるだけでまぢむかつく>
<落ち着いてー。ブログ荒らすと、逃げられちゃうから、ウォッチは無言が基本>
そりゃむかつく。早紀みたいな女がブログで害毒を撒き散らすから、地味でぱっとしない主婦までが変な目で見られるのだ。でも狩るっていったい何をするんだろう。その書き込みをしたのは、ゆりママだった。どの書き込みにも、ブログのリンクが貼ってある。こんないかにも良妻賢母っぽいブログを書く人が、「狩る」なんて、言葉を使うのか。信じられないような気もするけど、真面目なだけにより一層義憤を感じるのかもしれない。
<ちょっと、狩るってなに?>
と、掲示板に書き込みをして、もう一度ゆりママのブログを見た。ゆりママのブログも更新されている。やはりゆりママは不倫が大嫌いらしく、ある有名作家の書いた不倫小説を激しく批判している。何か書き込もうかと思ってコメント欄を見てみると、すでに一件のコメントが入っている。
<こんにちは。不倫ブログウォッチのスレッドから来ました。ほんと早紀たんは、女の敵! どうにかして正体を暴いてダンナにばらしてやりたいよね。それじゃまた遊びに来ます。けんたママ>
やはり同じようなことを考える人がいるのだ。思い切ってゆりママのブログにコメントを入れてみることにした。
<ほんとほんと。うちの猫さんが発情しただけで、あらーやっぱり猫さんって飼い主に似ちゃうのねーとか、ご近所に嫌味を言われるのも、早紀たんみたいな女がブログで害毒を撒き散らすからだよね。早紀たんぎゃふんと言わせてみたいです。いくママ>
ゆりママとけんたママに倣って、いくママという名前で書き込みをした。この名前から個人が特定できるわけではないし、ネットのつき合いなんて飽きたり都合が悪くなったら消えちゃえばいいだけだ。
たかだか掲示板とブログに書き込みをするかやめておくか逡巡するだけで、時間はあっという間に経ってしまう。そろそろ花梨を迎えに行かなければならない。時間あるのに、使いこなせない。細切れの時間はあっても、何かに集中できるまとまった時間がないのだ。
あるいは、体力や気力の問題なのだろうか。ねねのことで、近所の主婦といさかいを起こしてから、郁子は、積極的に外に出て何かをやってみようという気にならなかった。ちょっと買い物に出たただけで、会いたくない人に会ってしまわないように気を遣って疲れてしまう。夫に言っても相手になんかしてもらえない。近所づきあいと、子どもの送り迎えで一日が終わってしまうなんて、そんな気楽な人生がうらやましいと、嫌味を言われるのがオチだ。郁子はパソコンの電源を落とし、日傘を持って家を出た。
この辺りにはどういうわけか、犬を飼っている人が多いようで、夕方になると小型犬を散歩させている人をよく見かける。猫を飼っている人の話はあまり聞かない。もちろん猫は散歩に連れて行ったりしないので、見かけることもない。
ねねがうちに来てから半年ほどたったある日に、ねねはベランダの窓のところに座って、おわあ、という変な声で鳴き始めた。もらってきたときにトイレのしつけは済んでいて、粗相をしたとは一度もなかったのに、家のあちこちに、ものすごい臭いのするおしっこを漏らし始めた。
猫もストレスが溜まると、精神に変調をきたしたりするのかと最初は思った。でも、あんまり外に出たがって一日中鳴くので、どういうことなのかすぐにわかった。発情したのだ。それまでは外に出さなければ大丈夫だと思って、発情したらどうするかなんてまったく考えていなかった。最初の二日間はどうにか我慢したけど、あんまりねねがしつこく鳴くので外に出してしまった。それから二、三日でねねは嘘のようにおとなしくなったけれど、代わりにあっという間にお腹が大きくなってきた。まだ子猫みたいな顔して、あまりに手際がよすぎる。
生まれた子猫は、ねねをもらってきたときと同じように、市の広報に載せ、それから獣医の伝手(つて)を頼って、里子に出した。
それから、ねねを外には出さないようにしていたけど、家はマンションの一階なので、ちょっと窓を開けた隙に逃げられてしまうことが度々あった。しばらくすると、上の階に住んでいる岸田さんという若い主婦が家にやってきた。プラスチックのバケツとシャベルを持った二歳ぐらいの男の子を連れて、ゆったりとしたジャンパースカートの下腹が妊娠中期ぐらいの大きさに膨らんでいる。
「今日ね、みんなで話し合ったんですよ。公園の砂場が猫のおしっこ臭いんです。うんちも転がってるし。お宅は猫を飼っているでしょ。責任を持って砂場にうんちをしないようにするか、猫を外に出さないようにしてもらえませんか? 犬を飼ってる人はちゃんと散歩のときにうんちを拾ったりしてるじゃないですか。なんか無責任っていうかあ、猫ってなんとかっていう菌を持ってるじゃないですか。感染すると赤ちゃんに影響がでるやつ。上の子が小さいから公園に連れて行かないわけにはいかないし困ってるんですよぉ」
そのときに、ねねを外飼いしてるわけではないことを説明して、ねねのせいではないにしても、折れて謝っておけばよかったのだ。でもねねが砂場を汚している証拠なんてない。他に猫を飼っている人だっていないわけではないだろうし、野良猫の仕業かもしれない。それなのにねねのせいと決めつけられて頭に来たので、
「じゃあ、砂場に蓋をしたらいいじゃないですか」
と言ってしまった。
「わあ、猫飼ってる人ってやっぱり自分勝手で無責任なんですねぇ」
「だって、うちの猫だって証拠はないんでしょ」
「証拠はないですけどぉ、この辺で猫飼ってるのってお宅だけだし、ほら子猫だって産まれたじゃないですか。その辺に捨てて野良猫になってるんじゃないんですか? そういうのってすごく困るんです」
「生まれた子猫は捨てたりしないでちゃんと市の広報に出して欲しい人に譲りました。知りもしないのになんで捨てたとか言えるんですか?」
「だって、みんなそう言ってるんです。夜に車で猫を捨てに行ったのを目撃した人がいるんです」
「そんなことしてないのに、でたらめを言わないでください。目撃した人って誰なんですか?」
「誰だかは言えないけど、公園に通ってる人の知り合いです」
誰が公園に通っているのか考えた。花梨が幼稚園に通い始めてから公園にはほとんど行っていない。
「もう、言いがかりをつけるのはやめてください」
捨て台詞を吐くと、郁子はドアを勢いよくバタンと閉めた。それが、始まりだった。
四
「ママ、ねねちゃんは病院に行ったの? 手術は終わったの?」
学校に着くと、花梨は郁子を見つけるなり、駆け寄って来て言った。
「今日は準備だけよ。手術は明日」
「ママ、ねねちゃんはひとりぼっちで、赤ちゃんも産めなくて、可哀想だよ。もう一匹子猫を飼おうよ。ね、いいでしょ。真奈ちゃんのところに子猫が生まれたんだよ。一匹欲しいってもう言っちゃった」
郁子はため息をついた。ねね一匹のことで、あれだけのトラブルを起こしているのに、もう一匹なんて絶対に無理だ。でも、花梨にも真奈ちゃんという友達がいるのだと思ってほっとした。女の子の友達なら仲良くしていても陰口を言われることもないし、猫を飼っているということは、少なくとも猫を飼っているという理由で、いじめたりするような子ではないはずだ。
岸田さんという人が公園ママを代表して苦情を言いに来てから二週間ほど経ってからのことだった。幼稚園から帰ってきた花梨が突然おかしなことを郁子に訊いた。
「ねえママ、『さかりがつく』ってどういうこと?」
何のことを訊かれたのか、一瞬わからなかった。花が咲き乱れるとか、紅葉が盛りですとか、そういうことを幼稚園で習ったのだろうか。
「あのね、運動会のお遊戯でね、男の子と女の子に分かれてダンスをするの。花梨は女の子の方に入るのやだって言ったらね、桃実ちゃんに、『花梨ちゃんってやっぱりさかりがついているんだね。だっていつも男の子とばっかりくっついてるもん』って言われたの」
耳を疑った。六歳の子どもにさかりがついているだって? 花梨は女の子らしい遊びも、可愛らしい服装も苦手だ。花梨が小さい頃はまだ二人目を産むことを考えていたので、着せる服も与える玩具もすべて、下の子が男の子だった場合に使いまわしのできるものを選んでいた。それがいけなかったのか、男の子のように育ってしまった。でも、男の子とばかり遊びたがるからといって、さかりがついているというのとはちょっとどころか全然違う。
「男の子と遊ぶのがさかりがついてるってことなの?」
ある意味で正しいとも言えなくもないけど、どうも六歳児には説明しにくい。でもなんで花梨が知らないような単語が桃実ちゃんの口から出てくるのだ。
「桃実ちゃんには『さかりがつく』ってどういうことなのか訊いてみたの?」
「ううん。桃実ちゃんは花梨のことがきらいなの。『さかりがついてる』から。あと、花梨は悪い病気を持ってるの? 猫を飼っていると悪い病気になるってみんなが言ってるよ。花梨が触った玩具にはばい菌がついてるからって、その菌をみんなで付けっこしてるんだよ。ねえママ『さかり』っていうのはばい菌のことなの?」
猫を飼っているからって、ばい菌を持っているというのは間違いで、「さかりがつく」というのは、桃実ちゃんもどういうことなのかわからずに、誰かから聞いたことをそのまま言ってるだけなのではないかと説明した。犬や猫はさかりがつくこともあるけど、人間の子どもにさかりはつかないのだとも。花梨はわかったようなわからない顔で頷き、それ以上「さかりがつく」ことに対する説明は求めなかった。郁子の口調からこれ以上立ち入ってはいけない何かを感じ取ったのだろう。察しのいい子なのだ。誰かから聞いたこと、という自分の口から出た言葉を思い出し、はっと気がついた。言ったのは由香里だ。桃実ちゃんの弟はまだ就園前なので、苦情を言いにきた岸田さんと由香里は公園仲間なのだろう。
その翌日から、花梨は幼稚園に行きたがらなくなった。幼稚園なんて義務教育じゃないんだし休んでも辞めてもいいやと思って花梨の好きにさせていた。二三日休むと意を決したように登園し、また休むことの繰り返しだった。幼稚園を変えるにはもう遅すぎたので、学区外の学校に入学させることを考え始めた。
「花梨は真奈ちゃんとは仲良しなの?」
子猫のことから話をそらすために、花梨に訊いた。
「うん、真奈ちゃん大好き」
「だったら、今度うちに遊びにつれておいでよ。ママが車で迎えに行ってあげるから。真奈ちゃんちの電話番号を訊いておいてね」
花梨が学校に馴染んでいることを知って、ほっとした。毎日送り迎えをしている甲斐があるというものだ。
花梨とふたりで簡単に夕食を済ませた。夫の聡が夕食の時間前に帰ってくることは珍しい。
聡は独身のときに働いていた会社の同僚だった。よくいえば飄々としている、悪く言えば、仕事と、趣味である世界の王室の家系図づくり以外のことにはまったく興味のない男だ。 どこか悟ったようにオヤジ臭く、服装も言動も垢抜けず冴えない男だった。でも、よく見ると整った端正な顔立ちをしていた。花梨があんなに可愛いのは、上手いこと聡に似てくれたからだ。郁子は、容姿にうぬぼれを持っている男が苦手だったので、入社したころから密かに聡をチェックしていた。聡は、女性とつき合うということにも、大した興味を持っていなかったように見えたけど、あまり人気があるとは思えない単館上映の映画を、聡も観たがっていることがわかり、一緒に観に行ったことから、メッセージのやり取りを始めたのがきっかけだった。つき合い始めた頃から老夫婦のように淡々とした関係だった。郁子に指図したり、何かを押し付けたりすることのない人で、そもそもつき合う女性のファッションにも、デートする場所にも、ほとんど興味がないのだ。それにはなんとなく気づいていたけど、一緒にいるのがあまりに楽だったので結婚した。
結婚する少し前に聡を友達に紹介したときに、「結婚してからモテるタイプだから気をつけな」と言われた。モテる、というところで思わず笑ってしまった。聡がモテるなどという言葉とはまったく無縁な人生を送ってきたことは郁子が一番よく知っている。けれど、今思えば友人の予言は当たっていたのだ。
聡はおそらく浮気をしている。証拠はないし、問い詰める気もない。今まで積み重ねてきたものが崩れてしまうのが怖いのだ。どこまでが愛で、どこまでが惰性かなんて、考えるのも無駄なので、花梨とふたりで静かに生活できればそれでいいと思って、帰りが遅くても、ポケットから二人分の飲み物と軽食を買ったカフェのレシートや、仕事では行くはずのない駅からの切符が出てきても、一度も追求したことはない。
五
花梨が眠ってしまってから、もう一度早紀のブログを開いてみた。アップされたばかりの今日の日記がディスプレイに表示される。
<やったあ。来週ダンナが急に出張に行くことになった! だから急遽お泊りデートの計画を練らなくっちゃ。いつもラブホじゃなんだかしょぼいし、シティホテルに泊まっちゃおうかな。たまには独身時代の女友達と羽目を外して遊びたいって、お義母さんに言ったら息子は快く預かってもらえそうです。いいお姑さんを持って本当に幸せ。嬉しいな。ここんとこずっと、ディズニーランドには子連れでしか行ってないから、なおくんと行っちゃおうかな。でも買い物できないのが辛いところよね。
そうそう、時々中傷コメントが来るんですが、即削除しています。まったく世の中暇な人ばっかり、っていうか、誰にも相手にされないブスデブ能無しの主婦が嫉んでるんだよね。ああいうおばさんにはなりたくない、っていうか、ならない。悔しかったら自分も若い男とつき合えばいいのに。まあ、どうでもいいや。どこに行こうかな。なおくんも休み取れるかどうかシフト検討中なんだけど、一緒に休んで職場バレしないか、ドキドキするわ>
いやもう、好きにしてくださいというか。子ども置いてディズニーランドとかよく行けるよなあ、とか、きっとこの人精神的にはまだ子どもなんだろうなあとか、いろいろ考えて腹が立ってきた。不倫ブログウォッチのスレッドを見ると、ものすごい数のレスがついている。
<ちょっとちょっと、更新キタ。早紀たんの頭のレベルはねずみ以下>
<そんなこと言ったらねずみに失礼>
<日が決まったら、ディズニーランドまで早紀たんウォッチに行くとか>
<そんな、無理だって>
<なんかきっと、自分のことしか考えてないんだよね>
<ここも見てんのかなあ? 誰かブログに凸した? ウォッチは静かにね>
<うちらがブスデブ能無しのおばさんだったら、早紀たんは色ボケ婆>
<つーか、不倫相手と会うのに、ぬけぬけと姑に子ども預けるか普通? 頭おかしいんじゃね?>
言いたいことはすでに言い尽くされていたので、またゆりママのブログを見ると、けんたママと、郁子への返信コメントがつけられていた。
<けんたママさん。早紀は、東京近郊に住んでいることがこれでわかりましたね。ファミレス特定は意外に簡単かも>
<いくママさん。それって信じられない。本当に、ああいう人がいるから私たちみたいな真面目な主婦が迷惑をこうむるのですよね。本当に盛りのついた猫みたい。何を考えているのでしょう? 猫以下。あ、猫さんごめんなさい。本当に迷惑ですよね>
この返信コメントを見て、なぜだかものすごく嬉しくなった。聡にも詳しいことを話したことはなかったからだ。そんな話には興味がないと思ったので、ねねの手術のことも、花梨をなぜ学区外の学校に入れたのかも詳しい話はしていない。手術のことは、子猫の引き取り先を探すのが大変だから、学校のことはあっちの学校のほうが評判がいいからとしか説明しなかった。近所に口を利いてくれる人もいないし、母は心配性で何ごとにも過剰に反応しすぎるので、うかつに相談しようものなら、たちまち大騒ぎになってしまう。ネットで知り合った赤の他人しか話ができないのかと思うとなんだか寒い世の中だと思うけど、それでも嬉しい。
もう一度不倫ブログウォッチ板を見てみた。ちょっとの間にまたスレッドが伸びていた。
<本当に、早紀たんを狩るの?>
<ディズニーランドまでこっそり見に行くだけ>
<絶対どこのホテルに泊まるか嬉々として暴露するに決まってるから、そこで男が一回り年下っぽいカップルを探せばわかるはず>
早紀を狩る話が進行している。ただこっそり見に行くだけとか、写真を取ってどこかに公開するとか、狩る内容は書き込みによってまちまちだ。すでに何人か本気で行く気になっているようだ。
翌日、ねねを迎えに行った。脇腹の毛が剃られていて、手術跡が痛々しい。ねねは郁子の顔を見ると、抗議するような目をして短くにゃ、と鳴いた。ケージの隙間から指を入れて、ねねの頭を撫でてやった。
花梨が帰ってきてから思い切って真奈ちゃんのお母さん――坂本さんというらしい――に電話をかけてみた。とてもおおらかで気さくな人で、土曜日に真奈ちゃんを迎えに行く約束をした。
聡は郁子が眠っている間に帰ってきて、朝早くまた出かけていった。聡のために残しておいたおかずが消えていて、その代わりに使った食器が流しに、汚れたシャツと下着が洗濯籠に入っていた。傷が痛むのか不安なのか、ねねがやたらと擦り寄ってくる。
それから数日の間に、早紀のお泊りデート先は、ホテルオークラ東京ベイに決まったようだった。オークラは、あの辺りのホテルの中でも一番規模が小さくロビーも狭いらしい。早紀が来たら絶対に特定できるということで、早紀を狩る話も随分進行しているようだった。計画しているのはゆりママだ。具体的な話は掲示板ではなく、ゆりママのブログのほうでまとまりつつあるようだった。そこまでやるか、とやや呆れながらもけっこう参加する人が多いようなので、行ってみたいと思うようになった。所詮他人の悪口から発した集まりだということも、くだらない井戸端会議にわざわざ参加するのもどうかとは思ったけど、郁子には井戸端会議の仲間すらいないのだ。
六
土曜日に坂本家に、真奈ちゃんを迎えに行った。
「あの、谷村です。花梨がいつもお世話になっております」
「ああ、こちらこそ。堅苦しいあいさつは抜きにしましょうよ。私は真美子。坂本さんって呼ばれるのは好きじゃないの。散らかってるけど、お茶でも飲んでいかない?」
電話で話した印象どおりの、人懐こくて気さくな人のようだ。
「では、お邪魔します」
家の中へ入ったら、謙遜ではなく本当に散らかり放題の家だった。でも生活感があって、かえって落ち着く。
坂本家では猫はほとんど放し飼いにしているけど、誰も苦情を言いに来たことはないようだ。真美子によると、郁子の家の近くには比較的大きな精密機械の工場がいくつかあって、併設された研究所の研究職の人はほとんど郁子の住んでいるマンションに住んでいるらしい。だから、あの辺には似非インテリでいけ好かない人が多いのよ、と真美子は言った。小学校のことはよくわからないけど、確かに学区内の中学は、全国でもかなりレベルの高い学校だという話は聞いたことがある。
「それにしてもたかだか猫のことで、子どもにさかりついてるとか言っちゃう親ってなによ。人間としてレベル低すぎ。言いがかりもいいところだよね。学力高くてもそんな学校に入れなくて本当によかったね」
真美子は頬を紅潮させて早口でそう捲し立てた。郁子は、自分が間違ったことをしていないということを人に言ってもらって肩の荷が下りるような気がした。
「嫌な世の中になったよね。みんながみんな憂さ晴らしの対象を探してるっていうか。また嫌なことがあったらなんでも話してね。そんな力にはなれないかもしれないけど」
もっと話をしたいと思ったけど、花梨がせっつくので、郁子は花梨と真奈ちゃんを連れて坂本家を後にした。
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