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本能的な反応から距離を置くための自分史
人間はずっと、明日食べるものの心配をしてきました。
一人では容易に糧を得られません。
集団を作り、工夫を凝らし、なんとか「糧」を確保してきました。
生きることとは、集団に馴染むことです。
村(集団)の権力者やマジョリティに従うのは、やむを得なかったことでしょう。そうして生き延びてきたのですから、遺伝子に染み込んでいると言ってもいいのではないかと思います。
権力者やマジョリティの意向は、「村の掟」として引き継がれ、浸透していきます。
村の掟に従うことで、実際に生活が保障されるのであれば、実感を伴って「掟を信じてよかった」と思えてしまうのも仕方のないことです。
さらには、「次の世代にも、この掟を守らせよう」とも、きっと思うでしょう。それも、善意で。
さて僕は、コロナ禍における対策に対して、常に疑問を感じ続けてきました。
これだけ、村の権力者やマジョリティが、「対策は正義」「対策は村の掟」と強く発信してきたのに、距離を置いて考えることができたのはなぜなのか。
一つ要因を挙げるとすれば、「声高なマジョリティには、気をつけろ」という歴史感覚が働いていたからだとも思います。
声高なマジョリティは、一部の権力者の都合のいい方に社会を誘導する可能性が高い、という感覚です。
長い人類の歴史の中で、「マジョリティには従え」というのが本能として染み込んでいるのであれば、その本能から距離を置き、うまく付き合うには、歴史感覚が役立つということなんだと思います。
個人的なレベルにおいても、”心”が緊急事態を宣言した時、精神の平静さを保つには、個人的な歴史感覚、つまり自分史が役に立つのではないかと思います。