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障害のある子どもたちを育てる中で強まった願い

かつて知的障害・発達障害のある子どもが、家庭から離れて、家庭の代わりに生活する施設で勤めていました。

家庭の代わりに入所するということは、家庭で、それなりに辛い思いをしている子がほとんどです。
家庭で辛い思いをしたからと言って、僕は親を責める気はなくて、親にも事情があって、その事情の中で生活するのは、子どもも大変だっただろうな、ということです。

家庭で大変な思いをしてきているのだから、施設では、その分楽しい思いをしてほしいし、生きる力が育ってほしい。
そう願いながら、関わっていました。


でも、施設の中で提供できる環境は、一般に比べてとても狭く、集団生活がゆえに我慢させることも多く、子どもらしく、自分らしく過ごす時間は、どれだけ保障できたか、あまり自信はありません。


知的障害や発達障害があると、ものごとの理解が難しかったり、気持ちの表出が難しかったりします。
そのため、人間関係を築くことにハンディキャップがあり、トラブルになってしまったり、それを繰り返してしまう場面もあります。

本人は本人で、苦しみもあります。
ですが、小さな積み重ねを繰り返して、育むしかないかな、と思います。


彼らも、自暴自棄になることがあり、どうしようもない悲しさに打ちひしがれることがあります。
なんともならない怒り、悲しみ。
どこにぶつけていいのか、どうやって表現したらいいのか、誰がわかってくれるのか分からないまま、粗暴に見える行動で訴えるしかないのかもしれません。


苦しそうな姿を見て、また、天真爛漫な笑顔を見て、
僕は、「どうか、生まれてきたことを、後悔しないでほしい」と願わずにいられません。

生まれた時から家庭で苦しみ、施設という特殊な環境でも苦しみ、なんで自分はこんな目に遭うんだと思ってしまうかもしれませんが、どうか、生まれたこと自体を悔やまないでほしい。
そう願っていました。


その想いのベクトルは、僕自身に向くこともあり、
「せっかく生まれてきたんだから、一度きりの人生を、僕も後悔したくない」
と思っています。


◯自分の人生を、謳歌しながら死にたいという個人的な願い。
◯子供達が人生を、生まれてきたことを、喜び、楽しんでもらいたいという社会的な願い。

この2つの願いは、僕の行動の源泉になっていると思います。

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