魔界綺談 安成慚愧〜百一
大内義隆は最期の時を迎えようとしていた。
もはや、迷いはなかった。
ここで死ぬ。
それが残された最後の仕事であった。
自分を裏切った隆房にも、自分を最後まで裏切らなかった隆豊にもなんの想いもなかった。義隆の胸に去来するのは、不思議な開放感と安堵であった。
「わしは飽いていたのだ。」
義隆は小さく呟いた。
弟を葬り、父を葬り、おのれの野心に向き合う中で生きていることに飽きてしまった。従って、ここで生涯を終えることは「負け」ではなく、ただの終わりにしか過ぎぬ。
自分が死んだあとの大内家がどうなろうが、それは義隆には興味はなかった。
後は残った者が勝手にやればよい。
義隆はそう思う。己が生きてこその家であり、領土であり、家臣である。己がいなくなればそのことについて自分が関与しようがない。関与できぬのであれば必然的にどうとにもなるしかない。捨て鉢ではなく義隆がもつ極めて理性的な考えがその答えを導いている。
自分は最後の仕事を行うのみである。
義隆は着物の前を広げた。
そして、脇差しを手にした。
ぎらりと抜く。
青白い刀身が暗闇に光る。
「無事に死ねるかの。」
義隆は再び呟いた。
自嘲気味に嗤う。
「死ぬのに無事もなにもないか。」
そう言って、刀を腹に押し当てた。
鋭い刃が義隆の腹の皮膚を裂く。同時に鋭い痛みが義隆を襲う。
不意に。
不安が義隆を襲った。腹を掻き切ったあと、どうやって死ねばよい。誰も介錯するものはいない。自分を襲う苦痛を思った時、義隆はいい知れぬ恐怖をおぼえた。先ほどまでの陶酔から一気に現実に引き戻されるような感覚。
以前、大三島で鶴姫に股間を斬られた時の痛みがまざまざと蘇った。
あの痛みを自らの手で与える。
義隆は自分の身体がまるで石像になったかのような重さを感じ、恐怖という呪縛に自分がとらわれていくのを絶望とともに感じた。
無理だ。
義隆の唇は乾いていく。
死ねぬとなった自分がどうなるのか。
それも考えただけでおぞましい。
隆房の面前に引き出されて満座の中で首を刎ねられる。それは義隆にとって堪え難い屈辱である。それだけはなんとしてでも避けなければならぬ。
震える手に力を込める。
しかし切っ先は寸分も動くことはなかった。
ちりちり・・
義隆の耳朶を打つ音。
義隆は顔をあげた。
障子の向こうが赤く染め上げられている。
火が放たれたのだ。
おそらく隆豊が最後に、義隆の遺骸を敵に渡さぬために行ったのであろう。
もはや猶予はない。
義隆は嗚咽に近い声をあげ、刀を腹に突き立てようとするが、力はあと一歩のところで魔法のように抜け、刃は腹の薄皮一枚を突き破ったところで微動だにせず留まっていた。
「大内義隆。手伝ってやろう。」
突如、背後から声がした。
義隆は弾け飛ぶように振り返った。声は驚きのあまり出ない。
そこにいたのは。
縞の着物を着流し、伴天連のように短い髪、真っ白な顔に禍々しい紅の線を引いた奇妙な初老の男。
「な、何もじゃ・・。」
ようやく声が出た。
「魔界少女拳参謀。神楽坂十万喜。」
男はそう名乗った。