小説 人蟲・新説四谷怪談〜十
伊藤梅子は赤坂のホテルのロビーで待ち合わせをしていた。
約束の時間からもう1時間も過ぎている。
今までこのようなことは一度たりともなかった。
梅子は、婚約者の民谷伊一郎とディナーの約束をしていた。
伊一郎とゆっくりふたりきりになるのは久しぶりだった。
伊一郎が、梅子の兄の忠彦と打ち合わせをしている場所に同席することもあり、日常的に顔は合わせていたのだが、二人きりとなると数週間ぶりのことだ。
梅子は今年23歳。
留学を経て、都内の大学の大学院に進学している。
頭脳明晰であり、美しい梅子は歳の離れた忠彦にとって自慢の妹であった。
手足が長くスレンダーで、そこにおそろしく小さな顔。
瞳は大きく、肉感的な唇が特徴的だ。
美人ではあるが、とっつきにくい雰囲気ではなく、明るく開放的な華やかさも兼ね備えている。
伊一郎と梅子が並ぶと、まさに美男美女の完璧なカップルであった。
周りはふたりの仲を羨ましがったり、褒めそやしたりして、それが梅子の自尊心を満たしていた。
あらゆる意味で梅子にとって伊一郎は申し分のないパートナーだった。
男性の好みのうるさい梅子が唯一認めたのが伊一郎だった。
兄の忠彦の進めもあったが、伊一郎の冷静な頭の回転や抑制のとれた感情のコントロールは知的さを好む梅子にとっては理想であった。
また、伊一郎の洗練されたルックスも梅子の心を奪った。
ふたりは付き合って一年になる。
それなりに深い関係も結び、あとは梅子の卒業のタイミングを待って結婚という運びになっている。
伊一郎は忠彦の秘書から今年、政治家として独立を目指している。
次の衆議院選挙に立候補する予定だ。
政治家一家に育った梅子は政治家の妻として生きていくことはごく自然なことであり、それが一番だと考えている。
そんな梅子だが、ここのところ塞ぎ込んでいる。
原因は伊一郎である。
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