人蟲(改訂版3)
「駅はすぐそこですから行きましょう。」
「彼女」はそう言って伊一郎を促した。
伊一郎は「彼女」の勢いに押される形で、激しい雨の中、「彼女」と相合傘で駅に向かって歩き出した。
「彼女」はまるで恋人のように身体を伊一郎に寄せてくる。女物の傘だ。長身の伊一郎とふたりで入るにはこうでもしないときつい。
身長差があるため「彼女」は軽く背伸びしながらそのか細い腕を一生懸命伸ばしている。
その姿がなんとも可愛らしく、それでいてその一生懸命さを表さずいかにも自然な笑みを湛えようとしているのが少し可笑しく、伊一郎の心に染み入るような温かみを与えていた。
「傘。僕が持っていいですか?」
伊一郎は「彼女」の手から傘をとった。
お互いの手が重なる。
「彼女」の手はこの熱気に包まれた残暑というのに氷のように冷たい手だった。その冷たさに少したじろぎ目を泳がせた伊一郎に「彼女」はクスッと鼻を鳴らして、傘を手渡した。そしていたずらっぽい目で伊一郎を見上げた。
決して目立つような美人ではない。化粧も薄く、派手さは皆無だ。それでも近頃の若い女性にはない透明感と清純さが「彼女」にはあった。それを引き立たせているのは、黒い長い美しい髪と、対照的な白い肌。そしてあまりにも鮮やかな白いワンピース。
ふたりは駅まで無言で歩いた。雨の飛沫がふたりの肩や足を濡らしたが、それは伊一郎にとって不快なものではなかった。
むしろ、心地よい安心感を伊一郎に与えてくれた。
もともと、社交的なタイプではない伊一郎であったが、「彼女」は沈黙を気まずくさせる雰囲気がなかった。まるで形のないもののようなふわりとした存在感。その不思議な存在感の正体を長らく伊一郎は思いつかずにいた。
信濃町の駅に着いた。
伊一郎は「彼女」に傘を返し礼を言おうとした。
「彼女」は伊一郎が口を開く前に伊一郎に弾けるような笑顔を見せ会釈ひとつして駅の人混みの中に消えた。
伊一郎は呆然と「彼女」の白いワンピースを見送った。
時間がゆっくり流れた。
その間、