小説 人蟲・新説四谷怪談〜五十八
あの暑かった夏が懐かしかった。
11月を過ぎ、秋が深まり、冬がもうそこに迫ってきていた。
今年は残暑が厳しかった分、冬の冷え込みも厳しいのではないかと思われる。
本所の秋山鉄工の地下室で起こった禍々しい事件から、早いもので2ヶ月が過ぎようとしていた。
玲子の推理通り、白いワンピースの女は秋山袖美であった。
袖美の住んでいたマンションから採取した指紋と遺体の指紋が一致したのだ。
秋山袖美と民谷伊一郎の遺体の損傷は見るも無惨であった。
密閉された地下室で高温で焼かれた二人の遺体は黒焦げで男女の判別もつかないくらいであった。
鑑識の話によると、二つの遺体は固く抱き合っておらは、もはやひとつの物体といってもよかったそうだ。
そんな状態で、袖美の指紋が採取できたのは奇跡的であったらしい。
伊一郎と袖美によって監禁されていた伊藤梅子と、小岩やえは衰弱はしていたが、大きな外傷はなかった。
しかしながら、精神的ショックが大きく、暫くは入院を余儀なくされた。
伊藤忠彦も伊一郎の刺された傷のこともあり、再入院となった。
有力政治家を巻き込んだ事件ということで、日本中を揺るがす騒ぎとなったが、古川のマスコミ対策が功を奏したのか、そもそも喉もと過ぎればなんとやら…というこの国の体質なのか、一ヶ月も過ぎると、過熱していた報道も潮を引くように静かになった。
しかし、関わった玲子と勝と古川にはあまりに後味の悪く、胸に重い痼りを残す事件であった。
事件から二ヶ月が過ぎ、久しぶりに三人は中津川家の屋敷に集まった。
三人が顔を合わすのは、あの秋山鉄工の事件以来だった。
「ロイヤルミルクティーでございます。」
中津川家の執事のオバラが香り高いその名の通り「高貴」な紅茶を運んできた。
かつては天皇家お抱えの陰陽師であった名門中津川家は、現代においてもその威容を誇っており、麹町に広大な邸宅を構えている。
当代の礼央那は政府の顧問的な立場にあり、現在は中東における日本の外交の参謀的な仕事をしており、妻のかおると共に中東を飛び回っている。
したがってこの広大な邸宅には、ひとり娘の玲子と執事のオバラだけが暮らしているのだ。
「そうか。伊藤忠彦が政界引退を。」
「明日にでも党本部から正式に発表することになると思います。」
古川はいつも通り、濃紺のスーツをかっちりと着こなし、いつも通り誠実で温和な表情を湛えている。
「先生にとっちゃ、腹心中の腹心だろ。かなりの痛手じゃないのかい?」
中津川家の応接室の豪華なソファにまさに埋もれるように尊大に座っている男。
勝倫太郎。
この男も普段通り、派手なラメ入りのシャツとチノパンという、警察官僚とはほど遠い格好である。
トレードマークの赤いフレームの眼鏡も健在だ。
「痛手です。これ以上ない。…しかし、伊藤先生…いや…忠彦さんにはそれが一番だと思います。あの人は優秀な人ですから、どんな世界でも成功されるでしょう。それが新しい伊藤家の出発になるのであれば、私の痛手など大したものではありません。」
「梅子は伊藤家から籍を抜いたらしいわ。亡くなった父親の姓を継ぐそうよ。伊藤梅子改めて、木戸梅子。」
ショートカットの金髪に、抜けるように白い肌、濡れたように黒い瞳。
中津川家のひとり娘、
中津川玲子。
今日の玲子のいでたちは秋を感じさせるシックな深緑色のブラウスに落ち着いたベージュのスカートを合わせている。
「小岩やえの方は逆に伊藤家の方に籍を移したようだな。」
勝は相変わらず大量の砂糖をカップに叩き込む。
その様子を後方からオバラが気持ち悪そうに見ている。
「今や、伊藤の血をひくのは忠彦とやえだけということか…。」
三人の間にしばしの静寂が流れる。
この二ヶ月あまり、三人は伊藤家に起こった様々なこと、特に秋山鉄工の地下室でのことについて悔恨の念を抱いていた。
「今日は急に冷え込みましたね。」
古川は応接間から大きなガラス窓を通して見える中津川家の広大な庭に目をやりながら言った。
まだ昼の3時をまわった頃だが都内は季節外れの冷え込みを記録していた。
太陽は厚い雲に覆われ、薄暗い。
まるで三人の気持ちを現したような天気であった。
「我々は、結局、小岩さえの執念の前に何もできなかったのでしょうか。」
古川がぽつりと言った。
三人の複雑な想いを象徴する古川の言葉だった。
「俺は幽霊や、超常現象なんて信じないが、あの地下室での秋山袖美は心底、怖ろしかった…俺も今までいろんな経験をしてきたが、あれは秋山袖美じゃなく、まさに小岩さえの怨霊だと思ったな…。」
勝が少し肩を竦めた。
あの地下室での秋山袖美の狂気の様子を思い出したようだった。
「秋山袖美は本当に小岩さえの怨霊が憑りついていたのでしょうか?」
三人の中で一人だけ地下室に入らなかった古川には実感がない。
しかしながら、忠彦や梅子ややえの様子から想像を絶する恐怖があったことは感じていた。
「怨霊かどうかはわからんが、強いていえば、秋山袖美の精神異常をきたしていたんじゃねぇのかな。さえに対する共感と畏怖が、袖美とさえを同一化させた。そんなことじゃねぇかと想う。」
勝はリアリストらしく、秋山袖美についての見解を述べた。
それなりの説得力はあったが何か違和感を感じさせる。
玲子は宙を睨んで言葉を発しなかった。
三人の間に気まずい沈黙が再び流れる。
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