小説 魔界綺談 安成慚愧〜九十四
「あの女は斬る。」
隆豊はそう呟いた。
あの女とは、大三島の惣領である大祝安舎の妻であり、人質、そして義隆の愛妾である。
そう。
あやめ。
義隆の妻子は自害した。たったひとり嫡子である義尊は脱出を試みたが、これはあくまでも大内家存続のためであり、その他の者は義隆の美学に殉じて死を選んだ。
あやめは人質であるゆえ、義隆の美学に殉じる義理はない。
しかし、あやめこそが義隆を狂わし、陶隆房の反乱を招いた。その意味ではあやめこそ真の敵である。
あやめを殺してこそ、大内の誇りを保つことができる。あやめが生き残れば、大内の恥辱があやめの生ある限り続くことになるであろう。
隆豊は大股に回廊を進んだ。
あやめの忍んでいる場所はわかっている。
義隆はあやめについて明確な指示を与えなかった。
それは即ち
殺せ
である。
あやめが仮にこの館を抜け出したとて、隆房が見逃すはずはない。あやめを憎むことは隆豊と隆房は同じである。嫡子義尊については隆房は見逃す可能性もあろう。隆房は決して義隆を憎んでいたわけでも、大内家の簒奪を望んでいたわけではない。
文治派と武断派の軋轢から勢いや流れでやむなく蜂起したに過ぎない。
そのことは二派の仲介にたっていた隆豊が一番知っている。隆房が立たなければ、文治派の相良が逆の立場で蜂起していたであろう。
すべては運命である。
あやめもまた不運な女であるかもしれぬ。抜きんでた器量を持っていたがため、男を狂わし、その都度悲運をもたらす。ならば、あやめにとってもここで死を迎えるのは幸運であるかもしれぬ。
みしっ
みしっ
隆豊が歩くたびに回廊が軋みをあげる。
ひんやりとした空気が隆豊の強靭な肉体を包む。それはこの世とは思えない一種異様な気をはらんでいるようにも感じる。
回廊を突き当たったところに小さな納屋がある。
あやめはここに潜んでいる。
義隆の妻子や側室が次々と自害する中、あやめが素早く身を翻し抜け出るのを寺の小者が見ていた。いや。隆豊が見張らしていたのである。あやめにとっては大内家など恨みこそあれ、殉じる必要などないであろう。逃げようとすること自体は自然なことだ。
あやめは生を求め、隆豊はあやめに死を求めるそれだけのことである。
回廊に突き当たった。
隆豊は目の前の納屋の扉に手をかけた。
そして言葉もなく開く。
ギィ
扉は古い木材の軋みがまるで魔界の断末魔のように鳴り響いた。
ムッとする熱気。
闇の中に鮮やかな着物が見えた。
「あやめ殿か。」
隆豊は声をかけた。
着物の主は沈黙していた。
しかし、その着物があやめの物であることを隆豊は確認した。それでよかった。
躊躇はなかった。
隆豊は剣を抜き、その着物の主を貫いた。
不思議な手応えだった。
ガラン
妙な音を立ててあやめの首が落ちた。
長い髪がまるで墨のように床に広がる。
その首が隆豊の方を見上げるように転がった。
「こ、これは。。」
隆豊は我が目を疑った。