小説 人蟲・新説四谷怪談〜五十二
「親父、伊藤又一は偉大な政治家でした。実行力、決断力、交渉力、政治家に必要な能力は全て持っていました。しかし…。その反面。人間が持つべき倫理や道徳はなにひとつ持っていませんでした。欲しいものは全て手に入れる、そのためには手段も選ばず、常識も省みない、そんな酷薄な男でした…。」
忠彦は悲しげに伊一郎を見て、小さく溜息をついた。
「伊一郎の実の父親である佐藤直助さんも、親父の欲望の犠牲者のひとりです。」
「実の父親…。」
始めて聞く実の父親の話に伊一郎は目を大きく見開いた。
「佐藤直助さんは親父の私設秘書でした。真面目な有能な方でした。直助さんには里美さんという奥さんがいました。あろうことか、親父は里美さんに目をつけたのです。」
忠彦の言葉は陰鬱とした湿りを帯びていた。
今まで忠彦はその事実をひた隠しに隠していたのであろう。
一際、重苦しい空気が密室の地下室に篭る。
「当時、親父は政治スキャンダルで追及されていました。その責任を全て直助さんに押し付けたのです。真面目で親父を尊敬していた直助さんは、親父を庇うため罪を被ることにしました。そのとき、伊一郎くんはまだ乳飲み子でした。妻子のことを想い、親父のことを考え、直助さんは苦しんだことでしょう。ある夜、直助さんは地元の会合から東京に戻る高速道路でガードレールに激突する事故を起こし、亡くなりました…。その場の状況から居眠り運転による事故と判断されました…。しかし。私は直助さんは自殺ではなかったのかと思っています。親父が直助さんを日夜、追い込んでいたのを私は見ていましたから…。」
忠彦を見る伊一郎の目には喩えようのない怒りの色が浮かぶ。
「直助さんが死ぬと親父は、里美さんを強引に我が者にしました…。
そして、佐藤家から籍を抜かせ、まだ幼かった伊一郎と引き離したのです。親父にすれば直助さんの血をひく伊一郎が疎ましかったのでしょう。里美さんは親父の性質から伊一郎の身に危険が降りかかるの恐れ泣く泣く伊一郎を手離したのです。」
ギリギリ…。
伊一郎の歯噛みする音が地下室に響く。
始めて聞く実の両親のあまりに哀しい真実に伊一郎の憤りは想像するに余りあるものだった。
「それであんたが伊一郎くんを民谷さんに預けたんだな。」
勝が忠彦に言った。
忠彦は頷いた。
「伊一郎をまるで捨て犬のように施設に放り投げた親父のやり様は許せませんでした。しかし、我が家で親父は絶対でまだ20代の私はそのことを意見する勇気も力もありませんでした。なので親父に隠れて、お袋の親戚筋に頼んで民谷さんに伊一郎を引き取って貰ったのです…。」
「それじゃ、バイト先で僕と知り合ったのは…。」
伊一郎が驚きの声を上げた。
「偶然じゃないわ。伊藤さんはずっとあなたのことを見守っていたの。機会があれば自分の手元に置こうとしていたのよ。」
忠彦の代わりに玲子が答えた。
「親父は伊一郎のその後のことは何も知りませんでした。おそらく興味も無かったでしょう。政治家を引退して表には出てこなくなり、伊一郎も大きくなったので手元に置こうと偶然を装って…。」
「なぜ言ってくれなかったんですか!」
伊一郎が激情に身を任せて声を荒げた。
忠彦は消え入りそうに俯いた。
忠彦は伊一郎の強い視線から逃れるように首を振った。
「本当にすまない…。話しておくべきだったとは思うが、その後の親父の所業を思うととても…。」
「…その後の所業…?」
「親父は里美さんとの間に子供をもうけた。…双子の女の子だ…。」
「まさか…。」
伊一郎は息を呑んだ。
「里美さんの旧姓は小岩…。生まれた女の子の名前はさえとやえ…。」
「嘘だ!そんなこと…嘘だ!」
伊一郎は絶叫した。
「嘘じゃない。小岩さえとやえはおまえと血の繋がった妹であり、私と血の繋がった妹でもあるんだ…。」
言いようのない吐き気を催すような重い空気がその場にいる人間を押しつぶすように立ち込める。
「馬鹿な…さえさんと僕は兄妹…。そんな…。」
「親父は伊一郎のときと同じように生まれたさえとやえを捨てた。ただ伊一郎の時とは違い、叔父に預けたんだ。」
努めて冷静に話そうとする忠彦だが、残酷な真実に感情を抑えられなくなってきているようだった。
「だが、叔父も親父に似て、いやそれ以上に問題のある男だった…。さえややえがどんなに辛い思いをしたか…。いっそ、伊一郎のように施設に預けられた方がましだったかもしれません…。」
倒れているやえの肩が激しく震えていた。
その暮らしがいかに過酷で惨めだったかを思い起こしたのだろう。
「…母は…母はどうなったんですか…?」
伊一郎が声を振り絞った。
「里美さんは…死んだ。」
「死んだ?」
「夫を奪われ、伊一郎を奪われ、そしてまたふたりの子供を奪われた里美さんの精神は限界だった…。寒い寒い冬の夜…うちの事務所のビルから身を投げて…。」
伊一郎の泣き声が室内に響く。
まるで。
子供のような泣き声だった。
激しく。
悲しく。
「その後、さえとやえが叔父の家を出た後、私は、さえとやえにできるだけのことをしようと思いました。ふたりと直接会うことはしませんでしたが、せめて金銭的な負担は少しでも減らそうと…。」
「だからあんたがさえのアパートの家賃を払っていたのか。」
勝が腑に落ちたというように言った。
忠彦は頷いた。
「さえもやえも最初は、激しく拒絶しました。特にさえの伊藤家に対する憎しみは相当のものでした。しかし、4年ほど前にやっと受け入れてくれて…。」
「4年前…。もしかすると…。その頃からさえはこの計画を朧げに浮かべていたのかもね…。」
玲子は深く溜息をついた。
伊一郎はまだ泣いていた。
忠彦は首を項垂れて肩を落としている。
今まで隠し通してきたことを全て話して虚脱状態にあるようだ。
やえは倒れたまま、肩を震わしやはり泣いている。
梅子は身体を起こし、鋭い眼差しを忠彦に向けていた。
その中でただひとり。
全く表情を変えず、能面のように立ち尽くす人間がいた。
白いワンピース…。
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