小説 人蟲・新説四谷怪談〜八
「この間の御礼です。」
伊一郎は言い訳めいた言葉を発して、「彼女」を支えて歩き始めた。
クスッ。
「彼女」は笑った。
「ど、どうしました?」
伊一郎は「彼女」の意外な反応に動揺して言った。
「そっちの方向じゃないです。」
左門町の交差点を東に進み、すぐ北に上がる。
四谷怪談で有名なお岩稲荷の前を通り、いくつかの小さな小道を入った古いアパートが「彼女」の家だった。
そこに辿り着くまでふたりは無言だった。
あの雨の日と同じく、その沈黙は伊一郎には心地よいものだった。
そしてあの時よりも、身体に密着する「彼女」の体温が伊一郎の心に染み入った。
不思議な感情だった。
ふたりがもう一度言葉を交わしたのは、「彼女」が二階建てのアパートの階段を上がっていくときだった。
「ありがとうございました。」
「彼女」は伊一郎に頭を下げて階段を登ろうとした。
「あの・・。」
伊一郎は思わずその背中に声をかけた。
「はい?」
「彼女」は振り向いた。
「名前…教えてもらっていいですか…?」
伊一郎は言った。
「彼女」は微笑んだ。
そして。
「小岩さえといいます。」
「また…会えますか?」
伊一郎の問いかけに、
「彼女」はそっと頷いた。
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