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小説 人蟲・新説四谷怪談〜十二


民谷伊一郎は左門町にある古いアパートの一室にいた。




伊一郎の前には「彼女」こと、小岩さえが微笑んでいる。




4畳半ほどの部屋。


小さなキッチンがあり、小さな食卓がひとつ。


トイレは共同で風呂はない。


小さな洋服ダンスと、年代物の三面鏡。


黄色く変色している壁紙に掛けてある白いワンピースが異様に清涼感を与えている。


その他は、テレビもなければエアコンもない。




伊一郎がこの部屋に訪れるのはもう何回目だろうか。




このあまりに簡素な部屋の主である小岩さえと伊一郎の密会は不思議な形で行われる。



携帯電話はおろか、固定電話すら持たないさえと事前に連絡とりあうことはできない。


信濃町と四谷三丁目の間にある左門町の近くの公園にさえが来るのを伊一郎が待つだけだ。



そこにさえが来ればふたりの逢瀬は始まる。



どうしたわけか、さえのアパートに直接訪ねても必ずさえは留守で逢うことはできない。


だから、さえに逢うためには伊一郎がその公園に出向くしかないのだ。




逢えば、さえは必ず伊一郎をアパートに招き入れ手料理を振る舞う。


今日は小さな食卓の上に、煮魚とご飯に味噌汁、そして佃煮が並んでいる。




「僕は施設にいる間、なかなか友達ができなくて、友達つくるために、わざとヒーローごっこの悪者役をかって出たりしたんです。」


さえといると、普段無口な伊一郎が饒舌になる。



「でも子供は残酷だから、悪者をかって出た僕を容赦なく殴るんです。
あんまり痛いんで思わず突き飛ばしたらその子が怪我しちゃって…。」



なぜか伊一郎はさえに子供の頃の話をよくした。



両親を亡くした伊一郎の子供の頃の記憶は思い出したくもないことだらけである。


しかし、さえには気がつくと子供の頃の話をしてしまうのだ。


さえは、伊一郎の話に大きく目を見開いたり、笑ったり、心から悲しそうな表情をしたりして熱心に聴く。


そんなさえの反応が嬉しくてまた伊一郎は話しに夢中になる。



「僕ばっかり喋ってしまってすいません。ついつい…。」


「いえ、そんなことないです。伊一郎さんのお話はおもしろいから。」

さえは微笑んだ。



さえの手には団扇が握られており、ゆっくりと伊一郎に風を送っている。


まだ残暑は厳しく、クーラーも扇風機もない部屋は熱気がこもっているはずだが、さえが団扇で送る風は冷たく、心地よい。



「さえさんはどんな子供だったのですか?」


伊一郎は尋ねた。


その伊一郎の問いかけにさえは困ったような表情をみせた。


その表情に伊一郎は少し狼狽えた。


「なんか余計なこと聞いちゃいましたかね?すみません。」


「いえ。そんなことないです。」


さえは 少し遠い目をした。





「私には会ったことのない兄がいます。」





「会ったことのない…。」


伊一郎はさえを見た。



さえは特に変わった様子でもなくいつものように少しはにかんだ笑顔をみせた。





夜が更け、伊一郎はさえのアパートを後にした。



伊一郎がさえのアパートに泊まることはなかった。


いつも伊一郎は、さえの手料理を食べ、飽きることなく話をして帰る。


それだけが伊一郎とさえの関係だった。







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