小説 人蟲・新説四谷怪談〜五十五
「左様か。田宮伊右衛門とその妻女は実の兄妹であったということか。」
幕府側用人柳沢吉保は自身の邸宅の奥の間にいた。
江戸を襲った大雪は去り、冷たい冷気は張り詰めていたが、その冷気を縫うように太陽の光が差し込んでいる。
「それにしても十兵衛。傷は大事ないか。」
吉保と向き合っていたのは、三宅十兵衛であった。
十兵衛は左眼を白布で包んでいた。
そこには血がまだ滲んている。
左腿も同じように白布で包まれていた。
「左眼を失いましたが、命があっただけで良しとしなければなりませぬ。」
十兵衛は特徴的な低い声を発した。
その声は微塵も乱れはなかった。
庵室が崩れさり、咄嗟に脱出を試みた十兵衛であったが、倒壊の中、折れた柱で左眼を喪った。
あの晩から二日も経っていなかったが、十兵衛は忽然と吉保の前に現れたのだった。
「左腿の傷に障る。床几を持ってこさせるゆえ、それに坐るがよい。」
吉保は血の滲む傷跡を痛ましそうに見ながら言い、手を打って近習の者を呼ぼうとした。
「捨て置きくだされ。」
十兵衛は冷ややかに言った。
「傷は差し障りござりませぬ。このまま物語りとうございます。」
「うむ…。」
十兵衛のこうした態度は今に始まったことではない。
吉保はおとなしく従った。
事実上、天下を支配する最高権力者柳沢吉保をして、遠慮せしめる圧力が三宅十兵衛という男にはあった。
「伊右衛門、そしてその妻女、岩の父親は宅悦という按摩でござる。」
「宅悦…。もしや、昨日、隠亡堀で上がった戸板に括りつけられていた按摩の骸…。」
「その者でござりまする。」
十兵衛は頷いた。
戸板に括りつけられた半ば白骨化した無惨な按摩の骸の話は、瞬く間に江戸中の噂になっていた。
「伊右衛門が語ったところによると、宅悦を殺したのは岩。
その骸を始末したのは伊東忠兵衛と伊右衛門であったそうでござりまする。」
「娘が実の父を殺めたということか。」
「哀しい話でござりまする。」
十兵衛は痛ましげに言った。
吉保はその十兵衛の表情の裏側に別の意図を感じ取っていた。
「続きを聞こう。」
「伊右衛門とその妻女であり妹である岩の父である宅悦は元は赤穂藩の藩士でございました。」
「何?赤穂藩の出とな?」
吉保の目が光った。
「宅悦のもとの名はわかりませぬ。ただ何か不都合があったらしく、宅悦は脱藩を致しました。そのとき、宅悦は二人の子のうち、伊右衛門を藩に残し、娘の岩と妻を連れて藩を出たそうでございます。」
「なぜ娘ではなく息子を残したのじゃ?」
「それはわかりませぬ。わかりませねが、よんどころなき事情にて、脱藩の罪は問われなかったのではありますまいか。ほとぼりが醒めれば戻ってくるつもりだったのかもしれませぬ。伊右衛門は宅悦の存じよりの同役の藩士に預けられたそうでございます。」
「なるほど。」
「宅悦は妻と娘を連れて、江戸に出てきましたが、すぐに妻は流行り病で亡くなり、宅悦自身も病にかかり盲になり申した。盲の身で幼き娘を育てるのは至難。そこで宅悦はある人物から御家人田宮又左衛門を引き合わされ、娘を養女に出したそうでございます。」
「ある人物とは?」
吉保は目を細めた。
「調べはついておるのであろう。」
「恐れ入ってござりまする。」
十兵衛は頭を下げた。
そして息をひとつついて。
「大石内蔵助良昭。大石内蔵助良雄の父でござります。」
「なんと…。」
吉保は大きく目を見開き絶句した。
今、幕閣の悩みの種である赤穂浪士問題。
大石内蔵助良雄はその赤穂浪士の首魁である。
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