小説 人蟲・新説四谷怪談〜六十
「…そこでもうひとつわからないことがあるの…。」
「なんだ。」
「梅子なのよ。」
「梅子さんがどうしました?」
古川が怪訝そうな顔をする。
「小岩さえの怨念と復讐の対象は、伊藤又一と、その血をひくものだった。伊藤忠彦、小岩やえは該当するけど、梅子と伊一郎は該当しないのよ。まぁ、伊一郎は復讐を手伝う側だとしても…梅子があの場にいるのはやっぱり不可解なのよ…。」
「でも、袖美は血は繋がっていなくても伊藤の家に入っている以上、終わらさなくてはならない…そんなこと言ってなかったか?」
勝が記憶を辿りながら言った。
「小岩さえの怨念は伊藤家に関わる者全てが対象…。」
「ちょっと待って…。」
玲子は勝の言葉を遮った。
「終わらせなければならない…。」
玲子はその言葉を噛みしめるように言う。
「終わらせる…袖美は何度も言ってた…あのとき…。」
玲子は突然、激しく身震いした。
「終わらせる!」
玲子は突然大声を上げた。
「まさか!」
玲子は激情に駆られ、頭を掻きむしった。
「ど、どうしたんだ?」
突然の玲子の行動に勝と古川は驚いて腰を浮かせた。
「アタシは間違えてた…。大きな間違いをしてたわ…。」
「な、何を間違えてたんだ?」
「秋山袖美と民谷伊一郎が戦っていた相手は、伊藤家じゃなかったのよ…。
ふたりが戦っていたのは…。
小岩さえ。
そうなのよ・・・」
「どういうことだ…。」
「小岩さえが望んだのは、伊藤又一の血を継ぐものを皆殺しにすること。つまり、伊藤忠彦、小岩やえを殺すこと。それに対して、秋山袖美と民谷伊一郎は、伊藤忠彦と小岩やえを救うこと。そして伊藤又一にまつわる忌まわしい怨念の連鎖を「終わらす」ことだったのよ!」
玲子の言葉は一瞬にして勝と古川の動きを封じてしまった。
ふたりは中腰のままそのままの姿勢で固まっていた。
「伊藤又一に対する怨念の連鎖という観点で捉えば、伊藤梅子また救わなければならないひとり。
小岩さえにとっては、梅子はどうでもいい人間だったけど、伊藤忠彦と小岩やえを救い、これからも生きさせていくことを望んでいた袖美と伊一郎には、梅子は絶対に必要な人間…。
終わらせたあと、始めるために…。」
「終わりは始まり…ってことか…。」
ドスン。
勝は崩れるようにソファに腰を落とした。
「あのふたりにとって、小岩さえが死んだあの場所で、伊藤又一に関わる人間が全て揃い、そのうえで伊藤忠彦が全てを話し、全てを知り、そして怨念の連鎖を断ち切り、新しいはじまりをつくることが目的だった…。」
玲子の言葉に古川は頷いた。
「…確かに、忠彦さんは政治家をやめ、小岩やえを引き取り、梅子さんを自由にして…終わらせて始めたわけですね…。」
「じゃあ、なぜあのふたりはあんな最期を選んだんだ…。」
勝が首を振る。
玲子は目を閉じた。
長く…長く。
思考を巡らせた。
「….秋山袖美にとって小岩さえは心の底から恐ろしい存在だったのよ…。
3年前、小岩さえは秋山袖美に自分の身代わりを頼み、計画を実施させる約束をした…。
小岩さえは秋山袖美の目の前で首を吊ったんじゃないかしら…。
ロープで吊られながら息絶えるまで、袖美に自分の怨念を伝えたんじゃ…。
それから3年間、袖美は小岩さえの怨念に怯え、支配され過ごしてきたのよ。
死ぬことも生きることも許されずに…
地獄の日々だったでしょう…。」
いつしか玲子の頬に一筋の涙が流れていた。
「そんなとき、袖美は民谷伊一郎と出会ったのよ。
そして、伊一郎に全てを話し、さえの怨念から忠彦達を救おうとした。
伊一郎は又一は恨んだでしょう。しかし、自分のために陰日向支えてくれた忠彦さんを恨むことなどなかったと思うわ。」
玲子は震える手で涙を拭った。
「ありがとう…。
ごめん…。
そうだったのね…。」
玲子の細い肩が震えた。
嗚咽が玲子の口から漏れた。
勝と古川は石像のように黙っていた…。
「…袖美は…さえの怨念を断ち切るために自分の命を犠牲にするつもりだったのね…。
秋山袖美でもない小岩さえでもないまるで幽霊のような自分を終わらせるつもりだった…。
だから…。伊一郎が自分を刺したとき、思わず「ありがとう」と言ったのね。
本当は自殺するつもりだったのに…愛する人に自分の最期を…。
孤独だった袖美の…
あまりに…
哀しい…
喜びだったんだわ…。」
玲子は溢れる涙を止めることはできなかった…。
「…ごめん…。
袖美は、きっと伊一郎も救うつもりだった。
自分ひとりの死で終わらせるつもりだった…。
そのことは…
伊一郎はわかっていた…。
でも。
伊一郎は袖美をもうひとりにできなかったのね…。
だから一緒に死のうと…。
あの「ごめん」は、袖美の想いを受け入れず、一緒に死ぬことを選んだことに対する袖美への謝罪だったのよ…。」
長い
長い
沈黙がおとずれた。
玲子だけではない。
勝も古川の頬にも涙が流れていた。
玲子は、袖美が息絶える瞬間、伊一郎に何か言おうとしたことを思い出していた。
あのとき、伊一郎は袖美に唇を重ね、言葉を封じた。
その言葉がなんだったのか…。
玲子にはわかる気がした。
袖美はきっとこう言ったのだ。
生きて…。
「あれ、雪が…。」
古川が窓の外を見て声を上げた。
季節外れの雪だった。
ふわり。
ふわり。
雪はゆっくり舞いながら、地面に消える…。
袖美さん。
あなたは季節外れの雪のようなひとだったわね。
玲子は小さく呟いた。
雪は
その言葉に応えるように
ふわり
と
消えた。
陰陽探偵 中津川玲子
人蟲〜新説四谷怪談事件(了)。
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