小説 魔界綺談 安成慚愧〜九十三
「そうではない?」
冷泉隆豊は眉を顰めた。
この後に及んで死ぬのが怖くなったのか。
もはや大寧寺は隆房によって蟻の這い出る隙間もない。逃げることなど到底叶わぬ。義隆に残されたのはいかに大内家の尊厳を保ち、その武勇を諸国に響き渡るほどの劇的な最期を遂げることだけである。
そのために義隆の妻子も皆自決した。
大内家と義隆の名誉のために。
義隆がその運命から逃れることなど許されるべきことではないのだ。
隆豊は振り上げた両腕に力を込めた。
「そうではない。」
義隆はもう一度言った。
「安心せい。わしはここで死ぬ。おまえの介錯は必要ない。」
義隆の声は静かではあるが威厳に満ち、その言葉には一分の迷いもなかった。隆豊が心の底から忠誠を誓った中国の大守大内義隆の姿がそこにあった。
「殿…」
「隆豊。わしの介錯をした後、ここで腹を切るつもりであろう。それはならぬ。」
「ならぬとはどういう意味でござりましょうや。」
「わしの始末はわしがする。おまえは敵陣にこの大内家の武名を轟かせよ。大内家にその人ありと言われた冷泉隆豊は戦さ場の舞台で輝くのじゃ。」
義隆はそっと隆豊の方を見た。
将の貌であった。
隆豊は思わず刀を置き、平伏した。それだけの威厳が義隆に戻っていた。
「最期に隆房と相見えよ。あの者に言ってやれ。親を殺し、主を殺す。まさに戦国の鏡とな。」
「親を殺す・・。」
義隆の言葉に隆豊は思わず目を泳がした。初めて聞く話であった。
「おうよ。隆房は父親である興房を殺した。わしは興房自身から聞いたのだ。」
義隆は乾いた嗤い声をあげた。しかしすぐにその嗤いは止まった。
少し思案するように首をひねった義隆は、まっすぐ隆豊を見た。
そしてきっぱりと言った。
「そのことはよいわ。冷泉隆豊は誇り高き武士じゃ。心置きなく隆房と渡り合え。わしは立派に大内家の当主として果ててみせよう。」
義隆は澄み切った笑顔を見せた。
「殿・・。」
隆房にこの義隆を見せてやりたい。
突き上げるような衝動が隆豊を襲った。涙が溢れそうになるのを必死で堪え、隆豊は立ち上がった。
「殿。それではこれにてお別れでござる。」
「うむ。」
義隆はうなずいた。
「冷泉隆豊。最後のご奉公を致しまする。」
隆豊は義隆に背を向けた。
もはや振り向くことはなかった。
廊下に出て、襖を閉じた隆豊はそっと呟いた。