『浅倉透、17歳、高校2年生 アイドル、シャケ、ミジンコ』
「idol」 偶像、崇拝物、謬見
……いいや、私 どんな形したのが、私って思われても
彼女を呼ぶ音――浅倉透はアイドル?
前回のnoteでは浅倉透の今ここ性と時間感覚、というタイトルで一本書きました。その最後にGRAD編でのミジンコとかも書きたかったんですよ、ということでその心残りです。多分前回読んでなくても問題ありません。多分というのは、書きながら考えるタイプなので本当に問題ないかが序文を書いている現段階だとわからないからです。たぶん絶対、おそらく
まず最初に、浅倉透ってアイドルなのか?っていう疑問から。いや、アイドルマスターである以上アイドルなんですけどね。ただ、これは彼女の自認についてのお話ということです。もちろん。
『浅倉透、17歳、高校2年生 アイドルやってます』
【途方もない午後】のTRUEでこのセリフがあります。とーるちゃん、とーる、とーるくん。全部が全部、私を指している音だった、というセリフから続くのですが、言い換えれば彼女自身、自分がアイドルだという意識が薄いです。
あるいは、アイドルだけでなく、高校2年生というJKブランド(一部の人から反発きそうだけど)であったりというのもそうかもしれません。彼女自身がいったいどんな属性もなくとーるちゃん、とーる、とーるくんだった。その全てが掛け値なく彼女のものだった。
ここでちゃん、くんとつけているのも、彼女の中性的な部分を強調しているのかもしれません。幼いとーるくんを、Pは男の子だと思いこんでいるようですし、今は女性らしさは当然ありますが、非常に整った中性的な容姿だと思います。ショートカットであったりもそうかもしれませんね。まぁ僕は女性の浅倉透が可愛いと思いますが。ここ最近では一番ヒット。
TRUEコミュの最後で透と呼んでと浅倉透は言います。翻って午後2では、浅倉透はなんと呼ばれていたでしょうか。というのが以下の画像です。
ちなみに【UNTITLED】でも透は透とは呼ばれません。まぁ仕事の関係上呼び捨てっていうわけにもいかないでしょうから。といいつつ、どっかのコミュでは透って呼び捨てにされてた記憶がちょっとだけあったんですが、ありましたっけ。公平を期すためにはやはり呼び捨てにされてる場合もあるんだよ、と提示しなきゃいけないので。天塵でも違ったし、もし覚えている人いたら情報お願いします(自分でも探しときます)。
ともあれ、仕事上の「浅倉透、17歳、アイドル」は、浅倉クンや、浅倉さん、あるいは透クン、透ちゃんのように呼称されています。しかし、この呼び方にはもう一つ見えない前提があります。もう書いてありますよね。そう、「アイドル浅倉透」という前提のもと、彼女は浅倉クン、浅倉さん、透ちゃん、透クンと呼ばれているのです。
浅倉透にとってすべて自分であったはずの音が、途端に自分を指しているものか分からなくなってしまった。もちろん先程述べたように女子高生という肩書も関係しているでしょう。ちゃん、くん、といったように呼ばれていたとーるは、いつしか浅倉透、女子高生といった形に変貌し、さらにはそこにアイドルという属性まで付加されてしまった。
多分透って今までもスカウトされたことあると思うんです。Pとの出会いで、そういうのいいから。っていうのははじめてではあまり出てこない言葉だと思います。そのたびに断ってきて、だから円香も血相変えたんだと思いますが。さておき、そういう意味で言うと透は見た目の非凡さは自覚している部分はあると思います。まぁ自覚してないほうがおかしいか。
ともあれ、幸か不幸か、昔一緒にのぼった相手がアイドルのスカウトなんてやっていたものだからアイドル業界に入ってしまった。透にとっては、アイドルはPとのぼるための手段(少なくとも最初は)でしかなく、それは学校の先生だったらよかったのになー、なんていうコミュにも現れているでしょう。って初出どこだっけって必死こいて探してたんですが見当たらないです。記憶違いですかね、これ。
【2022/10/16追記】信頼度ボイス見てたらあったー!!!!!先生もやれたんじゃない?ってセリフありましたよ。ネタバレ注意です(遅い)。プロデューサーが担任でもいいよ、って言ってたんで、よかったです。安心しました。記憶はあってましたが、信頼度ボイスを見返してなかったのはどんまいですね。
一旦学校の先生でもよかったのに、っていうコミュがなかったとしておいて、じゃあアプローチを変えて『天塵』で雛菜が透にアイドルはプロデューサーが誘ったからー?っていう質問にうん、って答えてます。先程あげたように、アイドルは手段でしかないのでアイドル以外の道もあった、というイメージのうん、という微妙な感じなのでしょう。
しかしそんな浅倉透にはPが見初めたように、いや他の全員が見た瞬間にわかるように圧倒的なオーラを纏っています。それは透にとって顔のない誰か全員からの「いい」という呪いからもわかります。
よくなーい、とその後透は言うわけですが(途方もない午後)、これは明確にGRADとつながっているコミュなので、ミジンコの部分でまた取り上げたいと思います。
海を知るシャケ
シャケって生まれたときは川なんですが、餌を求めて海にくだるらしいんですよね。海にいる期間は種類によりけりなんですが、まぁそういう細かいことを話したいわけじゃないのでいいんです。
シャケは生まれ故郷の川から生きるために海に向かい、そして再び産卵のために生まれ故郷の川に戻る。その間結構たいへんらしく、人間に狙われたりもするしなんとか突破しても川には障害物があってジャンプしなければいけなかったり、また川が浅いのでたどり着くころにはもうボロボロだそうです。そうして最後の力を振り絞り産卵をして一生を終えたシャケは、その後死骸が餌となり、プランクトンが発生する。生まれてきたシャケの稚魚たちは、そのプランクトンを食べて成長し、再び海に向かう。
もう一つシャケは川で生まれるくらいだから元々淡水魚で、でも冷水域の淡水場では十分な餌がなく、仕方なく海にいった、と説明しているサイトを見かけました。
当たり前ですがシャケの説明は別にシャケのことを知ってもらおうと思って書いてるわけじゃありません。『海へでるつもりじゃなかったし』で雛菜がオウムに覚えさせた言葉がシャケでした。
シャケと覚えさせて、その言葉を言ったオウムに対して透先輩だ~っていう雛菜。つまり透はシャケなのです。ということをいきなり言ってもこいつなんだってなるので、シャケの生態、そしてシャケのジャンプということを書きました。
餌を求めなければならなかったから海へでる。アイドルになってしまったから海にでる。海に出るつもりじゃなかったけど、でてしまったから風をさがしている。
優勝するのが条件というので番組に出演することになったノクチルですが、優勝というのがどうでもよくて、頑張ってほしかったというのがプロデューサーの意図でした。そういう意味では円香のシニカルな態度は正しく、そして恐らくあの場にいる誰よりもその意味をわかっている。と思います。
透は騎馬戦を練習する過程で風を感じます。一方で大晦日は「風のない夜」であり、そして「どこにもつながっていない道」でした。ノクチルはそこで、テレビの依頼を断ります。そしてそのどこにもつながっていない道・時間で0時0分000000秒きっかりにジャンプして、ほんとの世界になるんだと。
このコミュではシャケである浅倉透でしたが、ここでのジャンプはなんら意味を持ちません。川へ戻って最後の命を燃やそうと、障害物を突破しようという意味がなかったのです。
初詣の翌日、透は夢を見ます。この内容がランサムサーガであるとかいうのは置いておいて、口笛で風を呼び、世界を見ます。しかしここで「ほんとの世界」になったものは、後に円香が指摘しているように湖を海だと思いこんでいた場面でしょう。事実、夢の状況と円香が説明していた4人の状況は酷似しています。
プロデューサーが彼女たちに伝えたメッセージ、どうなりたいか考えてくれ。ということに対して、答えがでていないノクチル。アイドルごっこをしている私たちと同じ状況である透の夢と、いい天気の下で暇だという円香。この暇だね、浅倉に関してはは正直わからんのであんまり触れません。仕事をしなかったことに対して暇だね、と言っている可能性もありますし、行く先がわからないことを暇と言っていることもある。あるいはそのどちらもかもしれない。
ともあれ、そんな彼女たちがプロデューサーから半ば強制的に目標を定められて進んだとき、透は風を感じます。そして、もしかすると、「本当の世界」になるのだと。
このプロデューサーに目標を定められて風を感じたのはいくつか解釈の候補が浮かびますが、僕個人の意見としては「ノクチル」として同じ船に乗り込んだ、ということにしたいと思います。『天塵』での仕事は、彼女たちにとってはまだ実感が薄いものだったのかもしれません。また、花火大会という仕事を通しても、お正月の仕事は断ってしまうというアイドルとしての意識の低さ。この低さというのは絶対売れてやる!というのが意識が高いという前提のもとです。チャンスを絶対掴んでやるとか、頑張ろうという意識が僕はいいとは言わないし、選択権は彼女たちにあったのだから、断るのだって立派な選択でしょう。ここでは便宜上意識が低いと書きましたが、彼女たちの選択は尊重しなければいけないし、強調すべきところだと思います。
話を戻します。恐らく彼女たちに欠けていたのは見られることに対する意識の低さです。「優勝したら、見えてるものが変わるって思う」というPの言葉と海を知らないわけじゃないという円香の発言と照らし合わせるならば、見る・見られるという言葉の意味も浮かび上がってくるのではないでしょうか。
この見られる意識というのは、ファン感謝祭の「ライク・ザ・シー」に通ずる部分があります。透は感謝祭がどうだった?という質問に対して、見られてるというより見てるって感じだったと。そして最大の理解者である円香は透に「見てるぶん、見られてたんじゃない」と伝えます。透はそれに対し、「そっか いいね 見えてたのか あれ」と反応し幕を閉じます。
少し訂正します。見られる意識ではなく、見られ方というので今後進めていこうかと。ともあれ、この見られ方というのがなぜ大事かといえば、花火大会での1幕を思い出してみましょう。誰も彼女たちを見ていないステージで、海に飛び込み、私たちを見ろー、と。円香さえも。
だから、彼女たちは”海を知らないわけじゃなかった”のです。そして、「ライク・ザ・シー」でも、こっちが見てた感じだったの後に海の情景が入ります。見る・見られるの原点は、少なくとも透にとっては海であった。そもそも夜光虫は海で光りますよね。
話が右往左往して申し訳ありませんが、『海へ出るつもりじゃなかったし』で円香がアイドルごっこしてる私たちと同じだといった最後、先程も書きましたが海を知らないわけじゃないから、というセリフがあります。直後、シャケと言うオウム。
円香が「ほんとは、湖なのにね」と言ったあとはオウムはシャケと言えません。雛菜も「そっか~ 言えないのか~……」と諦めてしまっています。ところが、透の回想が入り、海を知らないわけじゃないと言った直後、川で生まれ海で生きるオウムがシャケというのです。
意味深というか悲しいのが、円香は結局オウムがシャケというのを聞きませんでした。まぁこの時点でオウムがシャケというのを円香が聞いてしまうと、多分wing優勝してるとかその辺りですよね。ここでは円香が海を知らないわけじゃないと示唆したという事実それだけでよしとしましょう。円香が本気でその言葉を信じられなくても。
再び感謝祭のセリフからですが、大体合ってるから、うちら。というようなセリフがありましたよね。この点も先程のノクチルとして同じ船に乗り込んだ、という考えの根拠となった一部分です。つまり、正月の仕事を断るというところでは多少なりとも合っていない部分があったでしょう。本当に断るべきなのかどうなのか。行き先がわかっている浅倉ですらそのときはわからなかった。だから、どこにも通じていない道だった。
しかし無理矢理でも目標を定められた結果、海に行けるという目的で花火大会の仕事を受けたとき同様、同じ船に乗り込むことができたのです。もちろん、イラストのように彼女たちが向いているのはバラバラです。円香に至っては目もつむっていますが、大体合っているからそれでいいんです。それが、彼女たちらしさ――Pが見た美しさです。
そろそろこの見出しのまとめです。ごっこ遊びしていた「ほんとの世界」と、海を知っているシャケの「本当の世界」。ただ、これどっちがどっちというわけじゃないんです。思い出してください。シャケは生まれたのは川でした。そして、海へ餌を求めに向かい、生涯を終えるために再び川に戻る。
その点でこの「ほんとの世界」と「本当の世界」に上下はありません。とはいえ世界は違います。川か、海か。シナリオ中の言葉で言うなら、湖か、海か。
いずれにせよ、シャケだって川で餌が取れたら川できっと生活するんですよ。多分ですけど。ノクチルだって、幼馴染という関係でずっと暮らしていることができました。それはそれで、紛れもなくほんとの世界です。(幼馴染がほんとの世界だとすれば、ほんとがひらがなになっている=幼いときからの関係性、という解釈も可能かもしれない)
それに、大晦日がどこにも続いていないような道、風のない夜だったとしても、彼女たちは全員一緒にだいたい合ってるジャンプをします。だからやはりかけがえのないほんとでしょう。
けれど、彼女たちはノクチルになってしまったことで海へ出てしまった。だから、風をさがしている。そこもやはり「本当の世界」です。そして、ノクチルの最大の魅力は「ほんとの世界」と「本当の世界」が両方とも”ほんとう”だということです。海へ出るつもりじゃなかったシャケ、アイドルになる。
ミジンコ、息をする。心臓が動く。
シャケでは見る・見られるのお話をしました。このことに深刻さを感じているのが浅倉透その人です。特に【途方もない午後】からそのことは提示されていたものの、GRAD編で限定ガチャで引けなくても浅倉透の考えていることが垣間見られるようになりました。
ちなみに見られるの部分に関して言えば、円香はノクチルの中では最も過敏だと思います。雛菜も多分同じくらい過敏な気はしますが、円香に関してはそのことがアイドル事務所に詰め寄った経緯の一つでもあるのだと思います。このことに関しては後述。する余裕があれば。なければ別の機会に。
さて、GRADでは透がクラス発表会のナレーションを引き受けるところから始まります。そのことに対し、GRAD忘れないでくれよ、とお小言をチクリなP。
次のコミュでは、透のツイスタが勝手にバズります。きっかけは、有名DJの後ろにひょっこり映っていた透でした。
さてここでまず最初の対比があります。このDJのことに関して透は誰だか知りません。一方で委員長に関しては偉い人だ、という認識があります。多分、業界にもう少し詳しかったらDJの人も偉い認識をしていたような気もしますが、浅倉透にとってはまだ学校の世界がリアルなはずなので、学年でも2位である”頑張っていない”透にとって偉い人がきたー、という認識になるのも納得です。思い返せば騎馬戦に出ていたとき、彼女たちは自分たちそっちのけでフィーチャーされていたアイドルたちに感情移入していました。透にとってはすごく頑張っていると思えたのかもしれません。
続けまして、クラス委員に出るのは非常に緊張しているのに、やはりアイドル活動の方は実感がなさそうです。携帯が鳴っているのも他人事だし、GRAD頑張ってくれよ、っていうのも、うん、とは答えたものの、という感じです。まぁこの部分も難しいですけどね。透自身、わからないなりにやっていた、っていう風に思えますから。
透はいいねとフォローが鳴り止まないSNSを見て「アイドルみたい」といいます。この部分で、見られているな(勝手に)、と思ったのかもしれません。そしてそれをこそ「アイドルみたい」だと形容しました。しかし、委員長にはアイドルにはなっていないといいます。別にこの部分を強調する必要もないとは思うんですが、ともあれ、彼女にとっては鳴り止まない通知も息をしていただけ。結果そうなっただけという、彼女自身の意思などはなんら反映されていないものでした。
だからこそ、2番になるのもしんどいと言っていた委員長と自身を比較してしまい、どうしたって自分を全うに評価してやることができない。
ここで冒頭に書いておいた「idol」に触れます。「idol」の意味はご存知偶像です。その他にも書いた意味がありますが、その中の謬見というのはイドラというものでして、アイドルの語源になったのがイドラです。このイドラに関してはフランシス・ベーコンが色々言っているのですが、ものすっごくざっくり言えば先入観とかそういったものです。つまるところ謬見とほぼ変わりありません。
浅倉透の悩みはまさに「アイドル」に起因するものです。あるいはこの部分は八雲なみに多少繋がる部分があるでしょうか。ともあれ、浅倉透はアイドルとしての自分が自認と圧倒的にかけ離れてしまっており、周囲の形作る浅倉透というアイドルとのギャップが上手く消化できなくなってしまいました。
このことは委員長のダンストレーナーの浅倉評にも当てはまるでしょう。ここが2つ目の対比ですが、委員長から見た透はクールでクラスのことになんて興味がなさそう。ダンストレーナーはその透の態度を全体的に適当で、何を考えているかわからないという。そういうキャラだってちやほやされていて、ダンスのスキルだっていらないでしょうと。
委員長は直後決めつけるようなことを言ってごめんと謝り、透はそれに対しちゃんとやるから。と。透が最大限に応えた言葉だと思います。そして、委員長みたいに頑張れるかな、と。
GRADの内容をグダグダ書いているだけとなってしまいましたが、僕がここでまず伝えておきたいのはこの場面の透めっちゃ可愛いよねってことです。可愛い、めっちゃ。なんか。
GRADに戻って、透は生きているだけで、心臓がちゃんと動いていることもわからないんだと思います。だから、あの小さいミジンコにすら心臓があって真面目に動いてるんだとすれば、自分はいったいどうなんだと。
『川の水、海の水、あたたかい泥 そこに沈めば、きっと
こなごなの命に戻る 名前もない、ただの命に』
――なりたいの? そういう感じに
そういうところにいたい 泥の中に
泥の中の命は、非常にシンプルなものです。でも、これはほんとは泥の中だけじゃない。食べて食べられて、という連鎖の中で湿地が営まれ、そして生命がある。とは委員長談。透は見られ方・自認とかそういったものでなく、この世の命の最もシンプルなものの一つ――湿地の泥の中というのにそれを見出し、そうしたシンプルな生命の中にいたい。それが、こなごなの命、名前もないただの命。ごくごくシンプルなものです。
もう結論に近いところを書いてしまったので、話が戻ってしまいますが、GRADの予選なんかではそのことがわからない透は、勝つことが偉いか?と聞きます。もしかしたら、優勝するのが条件だ、という騎馬戦の話とややダブらせてこういう風にしたのかもしれません。Pはその場ではそれだけが偉さじゃないと言いつつ、しかし結局のところ偉いと言ってしまいます。
で、予選勝利と敗北のコミュがあるんですが、もし敗北を見ていなかったら見ていただきたいです。このコミュも結構大切なこと言ってるんですけど、勝利にしろ敗北にしろ、浅倉透めっちゃ可愛い。ほんとに。めっちゃ可愛い。可愛い。
勝利コミュは偉い?って聞いたあとに、すごい?そしてがんばってる?ってPに聞きます。Pは何よりもお客さんもみんな引き込まれてっていうことを言おうとしているのに、それを遮ってです。で、頑張った?っていうのには、お客さんもとか言わず、Pが頑張ったよ、透。っていうのを聞いて、いっか、じゃあっていうんですよ。もうね、めっちゃ可愛くないですか?ここ。なにがどう可愛いとかは敢えて言わないですけど、GRAD編節々で透の破壊力高すぎるんですよね。
それで次に破壊力高いの予選敗退コミュなんですが、負けてしまったことに対して減る?仕事って聞いて、それに対するPの発言「……透が、たくさん仕事をしたいなら 頑張って取ってくるよ、どんな時だって」っていうのにかっこいい、って言うんです。まぁこのかっこいいは心底そう思ってると思います。「つられる プロデューサーに」っていう発言からですが、委員長といい、Pも頑張ってるんだ。っていうことから、そして彼女の考える生きているということから、かっこいいっていうのは表面上だけでなく、結構大切な意味合いも含まれているでしょう。まぁいっしょに登っている相手だ、って思っているからこそっていうのもあるとは思いますが、でもやっぱ可愛い。
偉さの話からやや脱線しましたが、これは決勝敗北コミュ②につながってくる大切なお話です。だから、GRAD編に関しては敗北コミュもぜひ読んでいただきたいのですが、そこでPは負けたけど偉いよ、って透に対して言うんです。GRAD編のP結構透に寄り添ってあげてる感でてるんですが、潟に行ったことも含めてなんですけど、これは透じゃなくてもかっこいい、って言ってあげたいですよね。頑張ろうな、一緒にって。透はそれに対して言葉を返しませんが、返さない方がいいと思います。よかった。
GRAD最後でミジンコに心臓を見つける透ですが、ミジンコという最もシンプルに近い生命の一つに心臓を見出し、ミジンコも自分と変わらないような命だということに気づきます。紛れもなく、ミジンコも生きていたのです。ミジンコという小さい存在も、私という存在も、ただの命だった。
浅倉透はミジンコに心臓を見出し、どんな形したのが私って思われてもいいと言います。これは見られる意識がついたとも言えるかもしれませんし、透がアイドルに”なった”とも言えるのではないでしょうか。
つまり、アイドルは偶像や先入観(イドラ)という意味がありました。委員長が見る透、番組関係者が見る透、ダンストレーナーが見る透は、それぞれやはり偶像です。もちろん、最後にはその偶像は河原を走りきったことや、クラスの活動に関わったことによって多少、シンプルな命として認識されるようになるのですが、アイドル活動を続けていくと今後も番組関係者のような態度、あるいは敵意を持つダンストレーナーのような態度が一般的になるでしょう。
これはなにもコミュ内の描写だけ、というわけではありません。シャニマスプレーヤーでも、例えば透を天才だと――非常に安易な言葉遣いで――呼称したり、財布ないわという言葉が一人歩きして頭空っぽキャラだと思われたり、あるいは顔がいいという一点のみが評価されたりということがあるでしょう。
実際の透は【途方もない午後】のように肥大化する”自分”とのギャップを感じたりしていますし、GRAD編はまるまるそのお話だったのですが、それらも含めて、息をしよう、どきどきしよう、シンプルな命であろうと言うのです。
ミジンコは食べる、食べられる。泥の中。
最後はやはり「捕食者」に関しては避けて通れないと思うので、そこに触れて終わりたいと思います。
透はそういったシンプルな命でありたいという一方で、番組関係者は透が「ドキドキさせる側」だとして捕食者だといいます。まぁこのドキドキさせる側、というのは僕の言葉遣いによるものなので、以下に引用だけしておきます。
浅倉くんがカメラを向くと、カメラが息をし始めるんですよ……忘れてたみたいにね
そういう存在がいるんです
全部のんじゃう、全部のんで輝く――――捕食者が
GRADでは「アイドル浅倉透」という偶像と「浅倉透、17歳、高校2年生」という自認のズレが描かれていました。最終的に、透は命のひとつになっていつか誰かが食べてくれたら、というディレクターがいう偶像――捕食者とは程遠い存在を思考しているかのようです。
しかし、けれども、これが本当にディレクターの認識と浅倉透との致命的なズレを描いて終わってしまっていいのでしょうか?もちろん、そういうズレを描いて終わるのもありだと思います。そういうのがオチとなっている作品だってあります。
ここで【まわるものについて】を思い出してみましょう。そこでPは透に追いつかないと言ったら、透は追ってるかもしれないじゃん、私がと。前回長く書かせてもらって循環する今という時間意識の表れの一つでした。
さて、このことを踏まえ、ディレクターの発言と透の自認を考えてみましょう。「ミジンコみたい」にドキドキしたいという透でしたが、そのミジンコとはどういう説明がコミュ内でされていたでしょうか。
『湿地において、食物連鎖は植物プランクトンから始まる
最初にそれを食べるのは、動物性プランクトン
生命のつながりの中の、最初の動物』
あるいはまた、透がいたいと願った泥の中。
『川の水と海の水が混じりあう河口付近は、底質が泥であることが多く、有機物も豊富に含まれます それは無数の命を育む、あたたかい泥』
そうです。透が考えるシンプルな命――湿地の泥の中にあるミジンコたちは、生命のつながりの中では最初という最も大切な位置づけでもあり、そして、泥は無数の命を育むことができる生命の温床です。
透が考える命のひとつ、いつか誰かが食べてくれたら、そういうところにいたいという気持ち。捕食者だと評された透でしたが、透が願う命がいなければ、そもそも生命の活動が起こりえません。
食べて食べられて、どんどん太陽の命がつながって
湿地を営んでるの……もちろん、世界中がそう
生命というと、どうしてもより強者が高次なものだと考えられがちです。しかしその実、シンプルな命に支えられているのです。シンプルな命がなければ、どれだけ高次で優れている動物だって食料がなくなってしまい、息絶えてしまいます。
だから、捕食者という言葉が非常に強く例えばジョーズのような強力な肉食の生命を想起させてしまいますが、ドキドキする、のぼっていく嬉しさを感じるためには捕食者だけでは成り立たないのです。
捕食者というのをアイドル浅倉透と考えるのもいいかもしれません。結局偶像と自認とのギャップが解消されなかったと捉えるのも間違いではないでしょう。ただ、僕がここで指摘しておきたいのは、透が考える「生命のつながりの中の、最初の動物」であるミジンコ(動物性プランクトン)でありたいと願うことと、捕食者であるというのは、追ってる・追われているというように表裏一体のものだということです。
さらに言えば、ミジンコ自体も実は捕食者です。植物性プランクトンを食べているのですから。つまり、ミジンコという矮小な存在を捕食される側だとやはり私たちはイメージしてしまいますが、ミジンコこそ、湿地で最初の動物であり、そして最初の捕食者なのです。この辺り、ディレクターが捕食者って言った後、委員長がすかさず湿地で最初の動物と言っていることから推測できますね。透のシナリオは特にこの時系列が飛んでいる場合、その直前と直後を見比べることによって色々みえてくると思います。
とまれ、ミジンコが食べられる存在でもあり、そして何より食べる存在――捕食者でもある。先程も強調したように、生命活動の最初でもあるというこよは、ミジンコはドキドキする(めっちゃ生きてる)と同時に、ドキドキさせる(めっちゃ生かす)存在なのです。そういう意味でいうと、ミジンコと捕食者の対比よりも、むしろ透という存在の大きすぎるほどの大きさが際立ってくると、少なくとも僕は思います。
そういう意味だと、まぁそこまでこのGRADで表現したいのかどうかは置いておいて、アイドル浅倉透も高校2年生の浅倉透も形が違うだけ、ということかもしれません。あるいは、どんな形したのが私って思われても、というのは、上記の言葉遣いに則れば、どんな形したのが=見られている透も透なんだ、ということかもしれません。
今みたいに誰って感じもなかったしね
『浅倉透、17歳、高校2年生
アイドルやってます』
GRADでの経験を通し、「誰って感じもなかった」浅倉透は、アイドル浅倉透でもあり、そして浅倉透17歳でもあり、浅倉透高校2年生でも、どんな形でも、どんな見られ方でも私なんだ、という自認を得ることができたのかもしれません。
皮肉なことに、というか幸か不幸か、これはきっと”アイドル”をやったからこそ気づけたことかもしれません。つまり、見られることによって、気づけた。透は委員長の発言から見られるように、アイドルをしてなくての幼馴染たち以外の前だと例外なく偶像でした。でも、そんな偶像である透を、わからないからこそわかろうと努力してくれたプロデューサーがいて、偶像浅倉透を人間浅倉透に墜としてくれた。
考えればノクチルも、高山Pのインタビューによると既存のアイドル像にはまるべきかどうか、っていうのをテーマにしてシナリオを書くことが多いとのことでした。『海へ出るつもりじゃなかったし』の楽屋裏でのアイドルたちは、テレビでみる華々しさがあまりなく、どちらかといえば刺々しく(ノクチルに横のつながりがないというのも原因)、人当たりのいいアイドル像からは離れていたように思えます。また、騎馬戦自体、フィーチャーしたいアイドルグループがいて、そのためだけの当て馬というような感じです。
精一杯フィクションとしてのアイドルであろうというのも立派なプロ意識です。それはそれで、やはり肯定すべきアイドルの形でしょう。ある種の信仰と言い換えてもいいかもしれません。しかし、ノクチルひいては透は偶像であることも認めた上で、あくまで人間浅倉透です。
もちろん、先程も書いたように、彼女自身の意思とは関係なく、その圧倒的なオーラのせいで天才という表現をされてしまったり、間の抜けたところがそのオーラのおかげで際立つおかげでおもしろキャラになったりすることもあるでしょう。
でも、それでも彼女は自分自身の手と足でのぼりはじめました。今までは、どことなく自分の手足でのぼれているかが分からなかったのです。言い換えれば、透は最初から自分自身の力でのぼりたいと感じていました。まぁ見た目っていうのも遺伝だろうがなんだろうが、それも自分の個性なのだから、それだってある種自分自身の力だって僕は思うんですが、そう割り切れない人もいるんでしょうね。
最後のプロデューサーという呼びかけは、今までのことを踏まえて考えてみれば、やはりこれからも一緒にのぼっていこうという意味合いなんでしょうね。あるいは、いろいろなことがわかったことで、一緒にのぼっていけるんだ、という呼びかけなのか。予選敗退コミュのつられる、という言葉のように、どちらかといえばリードされている感覚があって、ということなのかもしれません。そういう意味でいうと、追ってるかもしれないじゃん、という透のセリフはやはり本心で(はじめのジャングルジムでの出会いのようにPが先に進んでいる)、しかしPにその自覚がなく、wingでは不和すら生じていた。あの時点では二人が二人とも先にいってしまっているという感覚があった、ということなのかもしれません。
ちょっとこのままこの話を続けるのですが、こうして考えていくと『つづく、』なんかで言われていた何度もいっしょに巻き戻ろう、カセットテープの切れ端みたいな時間(誰も知らなくて自分だけが覚えている時間)に。というのは、彼女にとってののぼる感覚というのはやはり観念的なものなのでしょう。現実として時間は流れるけれど、ジャングルジムでの時間は幼少期浅倉透、アイドル浅倉透が同居しています。wingでもそういった演出がありました。前回のnoteでいう縦方向の時間の向き(流れているわけではない)が彼女の中にあるとすれば、幼少期もアイドルも、やはり循環する今意識の中に含まれているのでしょう。TRUEのいついっても同じじゃん、という透のセリフからもそうした感覚は透けて見えるでしょう。
一方でPは”今”という時間が張り付いている、ということを透にいって、どこか透は納得したようです。その前段階では、カセットテープが燃えたら残らないと少し驚いたように言います。ところで予言を巡ったお話が『つづく、』にはありました。そこでのPの発言は予知に”なる”もの、対する透は予知に”する”と言います。詳しく言うと、Pは既視感は終わったあとに気づく=予知になったという、過去への視点で物事を見ます。対して透は予知にする、といってPに自分の食べたいものを言って働きかけます。ここでわかるのは、発言するという能動的な行い(働きかけ)により予知にする(そしてするという言葉遣いが未来性を帯びている)のだ、ということです。
ちなみにちょっとズレるのですが、インドのイカに関して。透は遥か、と言いますが、Pはちょっと前までは、と言います。遥かなのにちょっと前。直後、これを知ってるという透。遥か遠く、ちょっと前、今、見たことある。ここは見た、ということから過去性を帯びているということでいいでしょうね。
さて、TRUEコミュの最後に10年後にあのテープを聞くのをほんとにしてね、と透が言ったのに対し、「必ず、現実にする」という言葉を聞いてオッケー、とどこか満足したように”今”というヘンな時間から透は帰宅します。なるのではなく、する。どこか満足気に、という表現しましたがするのだからそう見えたのは間違いではないでしょう。そしてさらに、最後には「また明日」という、強烈な予言を伴って。
また、TRUEコミュには過去みたいな未来みたいなヘンな時間というセリフがあります。このヘンな時間はリバースで触れられていて、先程書いたカセットテープの切れ端のような時間を指します。カセットテープの切れ端のような、誰も覚えていない過去とも未来ともつかない時間――今という時間。その時間の共有ができているのがPだと信じていて、事実「現実にする」という、透が納得する(Pが意識していたかまではわからない)言葉遣いで接し、GRADでも透の大丈夫だって言ってよ、という精一杯のSOSにも気づいて一緒に湿地に向かいました。その湿地も、過去と未来と今と、全てに接続しています(生命の循環)。
泥の中にいたい――シンプルな命のひとつである、泥の中に。そして、最後に呼びかけたプロデューサーは、かつて泥の中にいたシンプルな「とーるちゃん、とーる、とーるくん」と一緒にジャングルジムを登り、そして昼間に輝く星であった「浅倉透」を再発見した。そう考えると、最初に会ったときのことはプロデューサーに思い出して欲しい、という透の意図に少し近づけたような気がします。つまり、今はまだ「浅倉透」としてしかプロデューサーの前にはいませんが、いつか透のすべてを、いい音であったすべての透を、プロデューサーに見つけてもらいたい。単純にかわいい。
命のひとつになって――いつか誰かが、食べてくれたら
だいぶ脱線してしまったのでまとめます。プロデューサーはアイドルとして矢面にでる人物ではありません。しかし、透を見つけてスカウトしました。そういう意味では、透を捕食したんだ、といえるかもしれません。そして一方の透もそれに応えるようにのぼってきました。また、透を捕食したPですが、これは透風の捉え方であれば、Pが透に捕食された(スカウトした)とも言えるのです。
『俺が、行くからさ!』
かつてそう声をかけた青年Pは、透に手を引かれることもあり、また、昔同様手を引くこともあります。そして、どちらが先にいくにせよ、それは紛れもなく一緒にのぼるということなのでしょう。
おまけ:踊るチゴガニ
以上までで書きたいことは一通り書き終えたのですが、13000字を数えるほどになってしまいました。途中画像等もほとんどないので、ブラバしないで最後まで読んでくれた人も飛ばし飛ばしかと思います。ただ、自分でいうのもなんですが、結構いいこと書けたと思うので、タイミングが合えば全文目を通してみてください。
あと円香のこと書きますっていって結局書けなかった。ので、いずれ機会があればそのことは書こうと思います。まぁ今回浅倉透の話だからね。円香のこと書いたらズレちゃうから……といいつつこの二人は切っても切れないんですが。
さて本題に入ります。本題といいつつおまけのチゴガニです。チゴガニって湿地にいたカニなんですが、敗者復活コミュでチゴガニみたいに踊るよ、って透が言うコミュがあるんですよね。意外と見たことない人もいるんじゃないでしょうか。
上記の画像がチゴガニなんですが、チゴガニのダンスって求愛のダンスなんですよね。はい。なぜ僕がおまけと題してまでこれを取り上げたかわかっていただけたでしょうか。
長々と色々透について感想を書いたんですが、GRAD編通して言えることは透可愛すぎん?っていうことなんです。まぁチゴガニに関して細かくいうと雄のみがそれを行なったり、求愛じゃなくて威嚇なんじゃないか?とか諸説あるんですが、「恋のダンス」とも呼ばれているらしいのでいいでしょう。
それでですね、僕がいっちばん伝えたいのは、チゴガニみたいに踊るよ、だけじゃなくて「みてて」って言うんです。やばくないですか?やばいですよね。やばい。めっちゃ。
敗者復活戦に見事勝利すると、もう一曲付き合って、とも言うんですよね。もうね、これだけで僕は満足です。この可愛い透がGRAD編通じてところどころ垣間見れたので。
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